思考は「問題→解決」をただ繰り返す

いつも思考をグルグルと忙しく働かせながら生活している人には、大きく分けて次の二つのタイプがあると考えられます。

一つは、自分ではあまりそのことに気づいていなくて、誰かに指摘されて初めてそうかもしれないと分かるタイプ。でも、いざ思考を緩めようと思っても、なかなかうまくできないのです。

もう一つは、一瞬にしても思考を緩めることができると知ってはいるのだけれど、そのことがどれほど大切なことなのかということには、気づけていないタイプ。

私から見ると、どちらもそれなりにやっかいなのです。両方のタイプに共通なのは、自己防衛システムによって思考が絶えず働かされているということ。

特に、後者のタイプは心理的には思考を緩めることができるのに、そんなことをいくらしても何も解決しないと信じ込んでいるので、そこから抜け出せずにいるのです。

思考の目的は、問題を見出してはそれを何とかして解決しようとすること。この「問題→解決」という手順を繰り返すことで人生の目的を達成することができると思っているのです。

けれども、思考が何かを解決することができたとしても、それは同時に次の「問題→解決」が始まることを意味しているのだと理解することです。

そうやって、思考はいつまでも思考(自己防衛)そのものを維持するために使われることになるのです。

問題は解決するのではなく、どこまでもただそれと戦わずに(思考を停止して)見ることでのみ、問題が消えていくことになるのです。

いつも忙しく思考を働かせている人は、もうそろそろいい加減にこのことに気づくことがどうしても必要ですね。

素晴らしい時代に生まれて感謝!

いつも当たり前のように身近にあるものが、突然なくなってしまったり、使えなくなってしまうと、そのありがたみがよく分かりますね。

iPad で映画を観ていたら突然ネットが切れてしまいました。大元の機器を立ち上げ直しても、どういうわけかアップロードしかできず、ダウンロードが全く出来ない状態が続いています。

ということは、ブログもアップできないわけで。仕方なく、今スマホの慣れないキーを使って、文字を打っているところなのです。

こんな時、電話回線があるというのは心強いですね。それに、今は LTE が使えるのでかなりのスピードもでるので、それほどの違和感なしにネットを使えます。

キー入力にしても Bluetooth を使ってフルキーボードと繋いでしまえば、いつものパソコンと遜色ない感じでタイプすることもできます。

本当に便利になったものですね。でも、どれほど環境が整ったところで、どんな内容を書くかは人の心が決めるのです。それだけは、いくら世の中が進化しても変わることはありませんね。

私たちは、科学が進歩しても文明が進化しても、私たち自身はそれほど変化していないということに気づいています。

言葉や習慣が変わっても、人間の心はいつの世も変わらない、そう思っています。けれども、これからの人類は、未だかつてない大きな変化を遂げようとしているのです。

それは、誰でもが自己の本質に気づくようになるということです。こんなことは人類史上なかったことです。特別な難行苦行は必要ありません。

こんな素晴らしい時代に生まれ合わせたことに感謝したいと思います。

不可能性こそ私たちの本質

小学生のときの習字の時間に、「希望」という文字を書かされたことがあったと思います。筆で描くと、何となくサマになる文字の形が好きでした。

人は誰でも心の中に希望を持っていますね。希望があるからこそ、未来へ向かって突き進もうとする意欲が生み出されるのです。

希望とは、可能性という言葉で表すこともできます。あらゆる可能性があるからこそ、希望を持つこともできるわけです。

当選する確率がほとんどゼロであっても、億に一つの可能性があるからこそ、その可能性に賭けて宝くじを買う人がいるのです。

宝くじが当たったらとイメージすると、ちょっと楽しくなったりもしますよね。それが可能性に対する希望なのです。

けれども、希望が生きる活力を生み出す反面、実は苦しみを作り出すという事実にも目を向ける必要があるのです。

可能性は私たちを喜ばせもしますが、苦しみもちゃんと置いていってくれるのです。それはまるでコインの表と裏のようなものです。

どちらか一つだけというわけには決していかないということを、忘れないことです。一方で、物事の不可能性のすばらしさにも、気づくことができるのです。

不可能性を見るとき、私たちは本当の心の平安がそこに息づいていることに触れることができるのです。

可能性とは未来であり、不可能性とは今この瞬間なのです。思考の外にあるとき、あらゆる可能性が消失してしまいます。どんな可能性もなくなるのです。

希望もありません。その不可能性こそが、私たちの本質そのものなのですね。それはどんな可能性もない、無限の穏やかさがただ広がっているだけです。

心を開くには?

心を開くためには、どうすればいいですか?という質問をされることがあります。誰だって、心を閉じたままでは生きづらいということを知っているからですね。

けれども、理性によって心を開くということが難しいということも事実としてあります。だからこそ、切実な思いとしてそうした質問をすることになるのです。

心を閉ざしているのは自己防衛のためであり、心を開くというのはその自己防衛を少なくするということにほかなりません。

とはいっても、具体的にどうすればいいかということには確かに答えてはいないですね。一つの方法として、本音を吐露するということがあります。

自分の気持ちと正面から向き合って、できるだけ自分に正直になるのです。ただし、正直になるからといって、言いたいことをただ言えばいいということでもありません。

愚痴ばかり言っている人に、愚痴は防衛していることになると伝えても、愚痴ではなくて事実を伝えているだけだと反論されることがあります。

勿論、嘘をついていると言っているわけではありません。その訴える気持ち、自分の気持ちを分かって欲しいという思いを脇へ置いてみるのです。

そうやって、ただ自分の正直な心の声に耳を傾けることによって、まるで独り言でもつぶやいているように告白するのです。

それは、誰かに訴えることとはまったく違うものです。告白するように、本音を吐露するときには、人は概ね無防備になるものです。

それが、その人の心を開くことになり、結果として周りの人たちの心を捉えることになるわけですね。

呼吸の不思議

みなさんは、自分の呼吸に意識を向けることはあるでしょうか?自分にとって、子供のころからずっと呼吸というのは不思議なものでした。小さい頃は、呼吸を止めていることが一人遊びと化していました。

自分では自覚のないままに、息を吐いた状態のままでしばらくいたあと、苦しくなっていることに気づいて息を吸うということもよくありましたし、これは実は今でも時々経験します。

高校生くらいになると、授業中に一人こっそりと呼吸を止めて、あまりに頑張り過ぎて手足が痺れてくると同時に脱力してくるところまでやったりしていたのを覚えています。

最近、毎日のように高温のサウナに入るのですが、温度計によると気温100℃の中でじっとしているわけですが、湿度が抑えられているからこそ肺は火傷をせずにいられるのですね。

そうした高温の空気を繰り返し吸っているからなのか、常温の空気を吸っているときに、なんだかとても空気がおいしい!という感覚がいつもしているのです。

空気の澄んだ大自然の中に行くと、人は誰でも深呼吸したくなりますね。空気がおいしい!という表現をするのは、まさにそういうときです。

でも自分は、わざわざ時間をかけて大自然の中へと出かけなくても、擬似的な「空気がおいしい」感を味わえているのが嬉しいです。

息を吸うと、身体に活力がみなぎってくると同時に、それは物語の中での活躍と結び付けられますし、息を吐いていくと何となく時間の外へとはずれる感じがします。

つまり、一呼吸するたびに物語の内と外を交互に体験しているのではないかと思っているのは私だけでしょうか?

呼吸とは本当に不思議なものです。もしも、息を吐いた状態でずっといられたら、きっとすぐに覚醒してしまうのではないかと密かに思っています。

どんなときに親は子供を褒めればいいのか?

私たちは誰でも否定されるよりも肯定されたら嬉しいのです。けなされたら悲しいですし、褒められたらいい気持ちになれるのです。

だからこそ、どうせなら褒めて差し上げればいいのですね。親が子育て中に、子供を褒めてあげることは大切なことです。

けれども、どういうときに褒めてあげればいいのかを勘違いしている親が多いのも事実です。なんでも褒めればいいというものでもありません。

たとえば、テストで100点取ったら褒める、徒競走で一等になったら褒める、こういうのは当たり前のことかもしれません。

けれども、同時に50点取ったら叱る、ビリになったら叱咤激励するというのがくっついてくるのでしたら、褒めることは問題かもしれません。

なぜなら、子供は親にとって都合のいい自分でなければならないと思い込むようになってしまうからです。

たいていの場合、親は自分が嬉しい気持ちの時に褒めて、自分が否定的な気持ちなったときには、褒めないのです。

本当に必要な褒め方というのは、自分の気持ちよりも子供の気持ちを優先することです。つまり、子供が嬉しがっているときに褒めるのです。

○○でこんなに喜ぶことのできるあなたは素晴らしいね!と言う具合に褒めるのです。そうやって褒められることが条件づけられると、子供は自分が楽しい思いをしたり、喜んだりすることに価値があるのだと自然と理解するようになるのです。

人生を楽しむことこそが、素晴らしいこと、喜ばしいこと、褒められて当然のことだということを実感することができたら、子供のその後の人生は明るいものにおのずとなっていくはずです。

惨めさの原点

昨日のブログでは、自分の「惨めさ」、自分は惨めだという思いから逃げようとして、自己防衛をするというお話しをしました。

そうした自己防衛によって、惨めさが作り出す否定的な感情を見ないようにするわけです。その惨めさの大元とは一体何なのでしょうか?

それは、幼い頃に自ら作り出した、「自分はいらない子なんだ」という思い込みです。この自分の存在否定ほど、大きな惨めさはありません。

これが、その後の人生において自分の存在価値に気づけなくなってしまう理由の大きな一つであるわけです。

しかも、このどうしようもない惨めな思い込みは、本人の記憶がないような相当に幼い頃にやってしまうと見て間違いありません。

そして、その思い込みを一度作りこんでしまうと、今度は「やっぱり自分はいらない子なんだ」と思わざるを得ないような事態がさまざまやってくることになってしまうのです。

それは、その子の心の中に溜め込んでしまった惨めだと言う思いのエネルギーが、それが本当のことなのだと証明するかのように、次から次へと惨め体験を引き寄せるのです。

そうやって、惨めなのは本当なのだという強い思い込みと、それに対抗する強烈な自己防衛システムが構築されることになるのです。

催眠療法などで、自分の幼い頃の惨めさを再体験することができますが、それは初めに「自分はいらない子だ」という思い込みをした、その後のことを再体験している場合がほとんどです。

「自分はいらない子だ」という惨めさの原点を探し、それはただの思い込みに過ぎなかったという視点と、その奥に隠された感情を思い切り感じきることで、人生の質が変化してくるはずです。

「惨めさ」が作り出す感情を味わう

私たちが最も見たくない自分の姿とは、「惨め」な自分なのです。だから、「惨めさ」とは癒しをする上で忘れてはならないキーワードでもあるのです。

辞書で、「みじめ」の語源を調べてみると、「見じ」と「目」からなる語であることが分かります。「見じ」の「じ」は打ち消し推量の助動詞で、「見たくない」の意味だそうです。

たとえば、「負けじと頑張る」という際の「じ」も、同じ打消し推量の助動詞です。一方、「目」は「痛い目に合う」や「ひどい目に合う」の「目」と同じく、経験やある事態に出合うことを表すのです。

ということで、「みじめ」は見たくないような事態にあることから、かわいそうで見るに忍びないこと、情けないさま、あわれなさまを意味するようになったのだそうです。

だからこそ、「自己防衛システム」は自分の「惨めさ」を自分自身に対しても、他人に対してもできるだけ隠そうとするのです。

「惨めさ」そのものは、感情ではなくて思考そのものです。ある事態を知覚してそれを思考が都合よく「惨めさ」として認識するのです。

したがって、本当に「惨め」な自分がいるわけではありません。「惨め」だという想い(思考)があるということなのです。

そして、その「惨めさ」は恐怖や自己嫌悪などの否定的感情を生み出すのです。自分の心を癒すためには、必ず幼い頃の自分の「惨めさ」と向き合わねばなりません。

そして、それが作り出した後に心の奥底にしまいこんでしまった、否定的な感情を丸ごと無防備に感じきることです。

そうすると、現在の自分の人生で「惨めさ」に遭遇することが格段に少なくなっていくはずです。ぜひ、試してみてください。

「嫌い」と「好きではない」の違い

私たちはみな自分固有の好みというものを持っていますね。食べ物にしても、色や服や、他人の外見などについても同じです。

「好き」とか「好み」とか、「好ましい」などという表現を使いますが、それは要するに自分にとってすんなりと受け入れられるものだということです。

けれども、その反対に「好きではない」もの、「好みではない」、「好ましくない」と感じる対象もあります。その感覚がより積極的になったときに、「嫌い」と表現するかもしれません。

日常的には「好きではない」ということと、「嫌い」ということを混同して使っているかもしれませんが、よく見つめてみるとそこには大きな違いがあることが分かります。

「嫌い」には明確な拒絶があるということです。「いやだ」という感覚が含まれているのですが、一方「好きではない」には拒絶はありません。

私たちにとって、「嫌い」に含まれる拒絶こそが苦しみの原因となるのです。同じように扱われる「好きではない」には、そういう意味で苦しみがありません。

何かが、自分にとって「好ましい」ものであろうと、「好ましくない」ものであろうと、本当にどちらでも構わないのです。本質的には何の違いもありません。

それは持って生まれた個性によって作られる反応でしかないからです。しかし、「嫌い」となると話しはまったく異なってきます。

拒絶感は、決して生まれつきの個性からやってくることはないのです。それは、生後なんらかの体験を通して作り出されるものなのです。

生まれたときから、トマトが好みではない人にとって、なんらかの自己犠牲を強いられない限り、それは単に「好みではない」というままで居続けられるのです。

けれども、もしもそこに例えば無理やり食べさせられたとか、食べない自分に自己嫌悪を感じたといった自己犠牲がからんできてしまうと、トマトを「嫌い」になってしまうのです。

この二つの違いの大きな隔たりに気づくことです。自分の中に、生後作り出してしまった拒絶があるときにのみ、人は苦悩を抱えることになるのです。

なぜなら、「嫌い」なものはいくら拒絶しても、思い通りには決してならないのが人生だからです。それが苦しみのもとなのです。

もしも、あなたの心の中にある拒絶に気づいたなら、それをとことん見つめてみることです。そうすることによって、単なる「好きではない」に戻せるかもしれません。

対処よりも寄り添うこと

この世界の一般的な見方として、成熟した大人になれば、それだけ問題解決の能力が高くなるというように考えられています。

確かに学校の試験を解くことにしても、小学生よりも大学生の方がより高度な問題を解くことができるわけです。

新米の一年生社会人よりも、熟練した経験を持つシニアレベルのほうが、より的確な解決能力を持っているのは間違いありません。

けれども、もう一つの見方をすると、問題を解決するということを繰り返すことで、「自己防衛システム」が強化されるということに気づくことができます。

防衛システムは、問題を見出しては解決する、あるいは乗り越えるということを継続的に行うことで、それ自体の存続を目論んでいるのです。

だからこそ心の余裕をなくした心配性の親ほど、焦って問題を解決しようとばかりしてしまうのです。

例えば、いじめに苦しんでいる子供が、その辛い思いを母親に打ち明けたときに、親がびっくりして先生に電話をかけたり、いじめの中心となる子供の家に抗議をしに行ってしまったりするのです。

子供は、いじめを解決して欲しかったわけではないかもしれないのにです。子供は、ただその悲しみを一緒にいて受け止めて欲しかっただけなのです。

そうした親の言動は、傷ついた子供の心をさらに痛めてしまう結果になるのです。私たちは、とにかく「自己防衛システム」が促すままに、問題を解決しようと躍起になってしまうのです。

そのことにしっかり気づいたうえで、対処よりもただ寄り添っていることの大切さを知ることが必要ですね。

何か問題が見つかったり、困った事態が起きたとしても、慌ててそれを解決しようとするよりも、ただそれを真正面から見つめることなのです。

それだけで、問題だと思っていたことが次第に取るに足りないことに思えてきたり、心の痛みが緩和されてしまうという経験をすることができるかもしれません。