思考のないところに不完全さはない

昨日のブログでも書いたのですが、自分が全体性としての純粋な意識であるときには、この宇宙のあらゆることが完璧だとただ分かるのです。

完璧であると積極的に言う必要も本当はないのです。もう少し近い表現をすれば、不完全であるということはない、になります。

不完全さを見るのは、恐怖であり、思考なのです。私たちが通常考えている完璧さとは、恐怖を感じずに済むということなのです。

けれども、それは暗に恐怖を感じる可能性があるということを示しているということに気づく必要がありますね。

都合の悪いことが一つも起こらないということが、私たちのイメージしている完璧さなのですが、本当の完璧さを見るためには、まったく違う視点が必要です。

それは、無防備さである愛の視点です。それはただあるがままがそこに在る、起こることがただそこで起こっているというものです。

思考の外は、そういう意味では常に完璧でしかあり得ないということですね。逆に、「私」という思考の中では、決して真の完璧さを見ることができないのはそういう理由なのです。

思考のないところには、何の恐れも存在することはできません。そのことを愛と呼ぶだけです。それは不完全であるはずがありませんね。

サウナはいいよな~(いいよなおじさん風に)

午後一くらいの空いた時間にスポーツクラブに行くと、結構な長い時間サウナを独り占めできることもあります。

いつもは、誰か顔見知りがいたりして互いに挨拶などするのですが、誰もいないときにはじっくりと全体性へと意識が行くのを楽しむことができます。

意識が遥か彼方へと向かうのに、なぜ高温のサウナがこれほどまでに適しているのかは分かりませんが…。

身体は暑いと感じているはずなのに、不思議と自動的にリラックスしていくのを感じているだけで、自分の存在が希薄になります。

自分がいると、この世界はまったくどうしようもないことが山積していると感じるのですが、意識が彼方へ行ってしまうと、すべてが完璧だと分かります。

それまで外側の世界だと思っていたものが、実は全体性としての自己意識だったということの気づきがやってくるのです。

これはナニモノにも代えがたい、ある意味での完璧な救いのようなものだとも感じます。解決すべき問題も、改善すべき自分もなくなるのですから。

「自己防衛システム」が不安を安心に変えようと躍起になるのに対して、この無限の自己意識への注意は、果てしない平安への気づきなのですね。

というわけで、明日もサウナに行こうっと!!

「自己防衛システム」の本性 その5

「自己防衛システム」の目的は、見捨てられてしまう不安を、何とかしてそうならないようにして安心を得ようとすることです。

つまり、幸せになることが目的ではないのです。それに気づかずにいながら、大人になると自分を少しでも幸せにしようと考えるようになるのです。

ところが、幸せになるために使う手段として、無自覚のうちに過去に作った「自己防衛システム」が利用されてしまうわけです。

だから、幸せになれるはずもありません。その手段は、自分は生きていけるという安心を得るためだったのですから、見当違いも甚だしいのです。

そうして、結局幸せになろうと努力すればするほど、心の内部で活動する「自己防衛システム」にコントロールされて、自己犠牲を強いる結果となってしまうのです。

どれほど頑張っても、何をやっても、一過性の安心は得られるものの、そんなものは明日になったら消えてなくなってしまうのです。

どう努力をしても、どうしても心から喜びを享受する人生になって行かないのには、こうした明確な原因があったということです。

安心を得ようとする自分の防衛システムの本性を見抜くことです。そして、安心の代わりに、心からの平安に近づくにはという視点を持つことです。

よりよい自分になろうとしたり、自己啓発セミナーにはまってみたり、社会で成功して認められようとしたりするのは、すべてが「自己防衛システム」が関わっています。

さらに付け加えるならば、心の癒しを進めていこうとするのも、そして覚醒への道を究めようとすることさせ、実は「自己防衛システム」の中でのことなのです。

それでも、癒しの最初の一歩二歩は、その防衛システムの力を借りて進めていかざるを得ないのも事実なのです。

大切なことは、どの時点でそのことにしっかり気づくことができるのか、そして本当の癒しとは今この瞬間の自分を変えようとすることにあるのではなく、真実に気づくことなのです。

「自己防衛システム」の本性 その4

「自己防衛システム」において、忘れてはならない策略として、自閉というものがあります。つまり、心のシャッターを閉めて不都合なものを遮断しようとするものです。

自閉は、意識的にやることもありますが、その多くはまったく無意識的に行ってしまいますので、自分ではまったく自覚することができません。

私たちの瞳は、光を感知して網膜に入ってくる光を瞳孔によって調整する機能を備えています。そしていつも適正な光の量にしていますね。

それと同じように、都合のいい情報は最大限シャッターを開いて受け入れようとするし、逆に都合の悪いものが入ってこないようにシャッターを閉めるのです。

そうやって、心が傷つかないようにと守っているのです。問題は、シャッターを閉じ続けなければならない状態になったときに、その後開くことができなくなってしまうことがあるということです。

そうなると、心は常に自閉している状態となってしまうので、たとえば相手の気持ちなどが伝わってこないといったことが起きてしまうのです。

その後心がやることは決まっています。それは、分からないままだと非常に思考は不安になりますので、分かったつもりにするということです。

つまり、自分にとって都合のいいように、相手の気持ちを身勝手に決め付けてしまうということをやるのです。

これが常態化してしまうと、もうその人は大人になっても正常な人間関係を作ることが難しくなってしまいます。

そして、困ったことにご本人はその理由がまったく分からないのです。思い当たることがないために、結果として相手のせいにしてしまうことにもなるのです。

適度な自閉は誰でもそれなりにやっているものです。例えば、「KY」だと言われてる場合は、自閉を疑ったほうがいいかもしれません。

自分がやっている「自閉」を見抜くためには、いつも自分に正直に向き合っていることが必要だと思いますね。

「自己防衛システム」の本性 その3

今日は、「自己防衛システム」の見え透いた手口の代表的なものを一つご紹介してみたいと思います。見え透いてしまうのは、幼いときに作ったからですね。

たとえば、「あきらめた」と人にも自分自身に対しても言うことがありますが、あれは少しもあきらめてなどいないということが見え見えです。

あきらめたとは言え、まだ少し未練が残っているなどと平気で言ったりするのですから、それはもうお笑いの世界でしかありません。

あきらめきれないでいると、自分の心が辛くなるから、「あきらめた」ことにするのです。自分を騙すことで、苦しさから逃れようとする自己防衛ですね。

本当にあきらめることができたなら、それは防衛システムから外れたことを意味するのですから、その場合にはあきらめたという言葉は出ないはずなのです。

望むもの(事)が手に入らない苦しみから、目を背けずに真正面から見てしまえば、その苦しみは消えてしまいます。

したがって、あきらめるなどという心的行為など、初めから不要なのです。防衛システムは、そのことを本人には決して悟られまいとして、不満な気持ちと一つになることをさせないのです。

私たちは、まんまとその手口に乗せられて、いつまでも執着という中途半端な心の状態にとどまるように仕向けられるのです。

何かをあきらめるということを止めることです。あきらめようとするのではなく、満たされない思いから逃げずにただいることです。

心理的に何もしないでいられたら、防衛システムはどうしようもなくなって、その勢いは減衰していってしまうことでしょうね。

「自己防衛システム」の本性 その2

「自己防衛システム」が強力になり過ぎてしまうと、バランスの取れた大人へと成長することが難しくなってしまいます。

バランスというのは簡単に言ってしまうと、自由奔放な無邪気な自分と、ルールベースで社会性のある自分との間のつりあいが取れているかどうかということ。

「自己防衛システム」が強すぎると、前者の部分が否定されて身動きが取れなくなるだけでなく、後者の自分が強大になってそれ自体を自分自身と勘違いしてしまうのです。

どちらも大切な自分の部分なのですから、互いを補完しあうように使うことのできる大人がもっとも不自由を感じない人生を生きることになります。

セッションにいらっしゃる多くのクライアントさんに共通するのは、このバランスが崩れてしまっているということなのです。

あまりにも、自己防衛ばかりにエネルギーを費やし続けてしまうと、どこかで精神的な破綻がやってくるのですが、それは自由奔放な無邪気な自分がストライキを起こすからです。

そうなると、突然逆転現象が起きて、今までのような真面目でエネルギッシュに頑張る自分が影を潜めてしまい、身体が重くなっていわゆる鬱状態となるのです。

しばらく静かにしていると、また防衛システムが元気を取り戻すことでかつての頑張って見捨てられないようにする人生に戻ることになるのですが、いずれはまたストライキに突入するといった繰り返しが起きてきます。

そして、本当に困り果てたとき、あるいはセラピーなどを受けることで、「自己防衛システム」を見ることを学び、その影響を小さくすることができることに気づくことができるのです。

「自己防衛システム」の本性

私がいつもセッションでお伝えしている、「自己防衛システム」について、今日はさらに少し詳細な説明をしてみたいと思います。

3歳前後に芽生えた自我は、動物として生まれながらに持っている防衛本能を利用して、精神的に自分を守ろうとする「自己防衛システム」を作っていくのです。

自分の命を守ろうとするという意味においては、防衛本能と同じなのですが、違う点はそこに思考が介入するということです。

ということは、例えばお腹が空いたときにワンワン泣くという場合には、その「自己防衛システム」が使われることはありません。

なぜなら、そのような場面における恐怖は、ほとんど理屈ぬきの恐怖だからです。思考を介入しない文句なしの恐怖の回避に使われるのは、防衛本能なのです。

それに対して、幼子が作り出し始める「自己防衛システム」は、もっと明確な恐怖からの防衛のために使われるのです。

それは、周りの大人から嫌われて見捨てられないようにするということ。否定されて無視されたら、幼子は一人ぼっちでは生きていけないからです。

愛されたいというよりも、自分の思いが相手に伝わってそれを受け入れてもらうためには、自分を嫌われないようにしなければならないということです。

そのためには、考えうる限りのあらゆる防衛の作戦を生み出して実践していくのです。そして、その多くの戦略は残念ながらその瞬間だけの効果しか期待できません。

所詮は、幼い子供が考え出す方法なので、人生レベルで有利に働かそうなどという発想も持ち合わせていないからです。

そればかりか、結果としてそうした「自己防衛システム」が稼動すればするほど、それに比例した自己犠牲が蓄積されることになり、自分で自分を傷つけ苦しめることとなってしまうのです。

毎日自分がやっている見捨てられないための「自己防衛システム」の手口を、しっかり見極めることです。それなしでは、それを静かにさせることはできません。

そして、大人の自分は誰かに見捨てられるなどということは不可能なのだと、はっきり気づくことも大切なことですね。

セッションという貴重な時間

セラピストの仕事をするようになって、いわゆる心理療法なるセッションを実に6000回以上も行ってきました。

毎日淡々とこなしていれば、あっという間にそのくらいにはなってしまうわけで、別に驚くには値しないのですが、セッションというのは本当に不思議な空間なのです。

というのも、初回であれば互いにまったく見ず知らず同志であるのに、誰も入ってはこない密室でいきなりとても深い話しをするわけです。

この話しは世間ではタブーでしょうと思われるようなことや、一般的には恥ずかしくてとても言えないようなことを話題にすることもあります。

あるいは、不思議な非科学的なことや、いわゆるスピリチュアル的なことだったり、ごく普通の感性からしたらちょっとおかしいんじゃないの、と思われるようなことでも会話の中に入ってきます。

それがとても心地いいのです。ルールから外れるということは、なんて清々しい感じがするのでしょうね。

私が大好きな話題の一つに、「自分は本当にどこにいるのか」というのをまじめに見てもらうというのがあります。

多くのクライアントさんは、最終的には自分はどこにいるのか分からない、どこにもいない、などというような表現をして下さいます。

真実というのは、これ以上ないというくらいに身近なところに何気なく晒されているのですね。あまりにも、当たり前過ぎて理解を拒絶されてしまうのです。

スポーツクラブのサウナで毎日お会いするおじちゃま連中には、決してそんな話しはできませんので、セッションがいかに自分にとって貴重な時間なのかが分かります。

本当の癒しとは、真実を見るということなのです。どんな理屈も、どんな価値判断も通用しない純粋な気づきの領域なのですね。

人が真に成熟するとは

人が成熟していくということは、何かの経験を深めることでもなく、何かの結果を残すことでもありません。多くの知識を身につけることでもないのです。

それは、自己防衛を減らしていくということであり、それは自分の幸せを追求することではありません。自分が幸福かどうかと考える自己が希薄になることです。

守るべき自分への関心が薄れていくこと、あるいは真の自己への信頼が深まり、守るべき自分というものが本当はないということに気づいていくことです。

そのための決まった道があるわけではありません。何かの画一的な方法が用意されているわけでもないのです。

それは人の個性が千差万別であるのと同じように、人によって歩む道はまったく異なっていいのです。

ある人は芸術を通して、ある人は戦争などの混乱の世を体験することで、またある人は誰かに帰依することで、また奉仕活動によっても無私への道が開かれているのです。

また、最近ではそうした道を見出すよりも先に、いきなり自己の本質に目覚めてしまうということもあるかもしれません。

一方で自分の中にある立派なエゴを認識しながらも、自己の本質に気づきつつ生活が続いていくということもあるのです。

それは、歴史の中でも人類が初めて経験する貴重な時期にさしかかっているのかもしれません。すばらしいチャンスの時代に生まれたことを感謝したいですね。

死の恐怖はホンモノではない

最近では、このブログを書いてから歯を磨いたりして寝る準備をするのが慣例のようになっています。実際に布団にくるまるのは、それから少し後になるのですが。

それにしても、布団に入っていつも感じるのは、寝るのが本当に好きだなあ!ということです。いろいろその理由を考えてみるのですが、とにかく眠りに落ちることが楽しいなのです。

それは言葉を変えれば、意識を失う状態になるということを好んでいるということです。自分がいなくなる状態が好きということですね。

どうも後ろ向きな感じは否めないのですが、こればかりは仕方がありません。ところで、自分がいなくなるという点においては、眠ることと死ぬことに何の違いもありません。

それなのに、なぜ死ぬことだけが恐怖と結びついてしまうのでしょうか?自分がいるという状態に戻ってこれないということが、なぜそれほど怖いのか、これも謎です。

死ぬことが怖いからといって、じゃあずっと死なないままで何千年も生き続けなければならないとしたら、それはもう地獄の苦しみだろうと思うのです。

結局、死の恐怖というのが本物なのかどうかが怪しくなってきます。もしもそれがニセモノであるとしたら、恐怖そのものがまがいものであるということになるはずです。

死ぬことがどれほど怖くても、死んでしまったらどこにも恐怖など残ってはいないということも皮肉なことですが事実ですね。

死が忌み嫌うべきものだという洗脳をしっかり見つめて、恐怖が本物ではないということを見抜くとき、今度は私たちの本質に死はないということに気づくのではないかと思います。