その人の内面が人生の色合いを決める

ご本人を見ていると、その人の歴史を知らなくてもどんな人生を生きてこられたのかということが何となく分かるものですね。

その人の生き方や決め事などが、その人の人生の色合いを決めているのだと思います。経済的に豊かかどうかということや、多くの人に囲まれているかどうかなども深い関連があるのです。

本人が自分のことをどう見ているのか、どう評価しているのかということも強く影響します。身の丈に合わない事態になったとしても、そうしたことはそれほど長続きしないものです。

結局は、落ち着くところに落ち着くということです。私は、経済的に恵まれていた時期もあったのですが、今はその反対の状態に近づいています。

けれども、どちらにしてもそれほどの違いを感じずにいます。どれもこれも、間違いなく自分の内面にふさわしい人生がやってきていると実感できます。

面白いもので、どんな状況がやってきたにしても、これが自分の人生なの?と驚いたことは一度もありません。妥当な感じがいつもしています。

このことは、人生に満足していない人にとって朗報ですね。自分の人生を変えたければ、自分の信念や自己像などを根底から変えてしまえばいいのです。

間違いなく、それに見合った人生が必ずやってきてくれます。人生というのは、もともとがその人の心の内面をそのまま表しているだけなのですから。

思考を休めて、「何もなさ」の中で憩う

心理的自己防衛というのは、具体的に言えば「過去の経験から学んだことを基にして、来るべき未来に備えよう」とすることです。

動物全般が持っている防衛本能とは一線を画しています。なぜなら、防衛本能は、その瞬間、まさに今危険かどうかが鍵なのに対して、心理的自己防衛は過去と未来においての話しだからです。

そして、過去と未来ということは、まさに思考の範疇であるというわけです。人間だけが日夜励んでいる心理的自己防衛とは、そういうものなのです。

ということから、非常に大切なことを知ることができます。それは、苦しみの根源である心理的自己防衛を緩めていくためには、思考を緩めていけばいいということが分かります。

思考が緩むか、停止してしまえば、私たちに過去も未来もなくなるばかりか、守るべき「自分」という思考の産物さえもなくなってしまいます。

心理的自己防衛が、抑圧して見ないように仕向ける否定的な感情にしても、それを作り出すのは思考なのです。

したがって、思考の外にいることさえできれば、そうした都合の悪い感情からも開放されることができるのです。

オーバーな表現をすれば、日本中の人たちが、あるいは世界中の大勢の人々が、自分の思考にとらわれないようになったら、世界は大きく変わってしまうでしょうね。

私自身も含めて、一人でも多くの人たちが、過去と未来ばかりにエネルギーを費やす思考を時々休めて、「何もなさ」の中で憩うことを覚えたら、暖かな思いやりの気持ちが巷にあふれるようになると思います。

心の「やじろうべい」

以前、キアヌ・リーブスという俳優さんが、何かの番組でインタビューを受けて答えていたのですが、彼は日曜日から金曜日までは食事制限をしているということでした。

それは勿論、俳優としての職業柄、引き締まった身体を保つ必要があるからですね。けれども、土曜日だけは好きなものを好きなだけ食べるようにしているとのことでした。

あまりに、自分に厳しくし過ぎてしまうと、節制が続かずにどこかで爆発してしまうからなのだと言っていました。

つまり、過度になりすぎずに、バランスを保つことが継続するコツだということですね。お金が乏しいからと、節約し過ぎて大好きなスイーツを長い間絶ってしまうと、理性を破ってがむしゃらに食べてしまうということが起きるのと同じです。

アンバランスになっていることで、自己治癒力が働いて自動的に反対方向へと向かわすことになるわけです。

それは、傾いていた「やじろうべい」の手を離せば、反動でもう一方の方へと傾いてしまうのに似ています。そうやって、「やじろうべい」が平衡を保つようになるためには、何度も左右に傾かなければならないのです。

こうしたことは、人生レベルでも起きています。つまり、幼い頃に作り出した自己防衛システムが度を越えて強力に作用すればするほど、無防備さ(無邪気さ)とのバランスが崩れてしまい、あるとき一瞬にして反転してしまうということが起きるのです。

その反転こそが、身体の病気であったり、うつ症状であったりするわけです。反転の周期は人それぞれで、数日で入れ替わる場合から、数年の場合もあります。

あなたの心の「やじろうべい」はバランスがとれていますか?日ごろからしっかり確認しておくことがとても大切です。

そのためには、ずっと支配されつづけてきた精神的自己防衛を見張り、その策略を見抜いて、それを緩める選択肢を見出すことです。

心の中にあるたくさんの隠し事

日ごろから、自分の心の中に浮かんできた感情なり想いなりをよくよく見てみるというクセがあります。それがいいものでもいやなものでも。

ついさきほども、ちょっとコワメの感情が出てきました。それは、自分は所詮独りぼっちかもしれないという想いです。

この真っ暗な宇宙空間の中で、自分独りがただ居なければならないというようなものです。自分の感覚では、これはかなり幼い頃に感じていたものだという気がします。

結局それはちょっと出てきただけで、最後まで見切ることはできませんでした。きっと都合が悪いものなので、深い部分で隠してしまうのでしょうね。

小学生のころに、死んだらどうなるんだろうというのがやってきたときに、本当に心が凍りつくような恐怖を感じて、顔面から血の気が引いたことがありました。

これも、ほんの数分くらいのうちに分からなくなってしまったことを覚えています。子供の頃というのは、そうやって自然と不快な感情を感じないようにしてしまうということを繰り返しやってきたんでしょうね。

そうやって隠してきたものが、何かの拍子にふと顔を出すことがあるのですね。あ、見つけたと思って注意深く見てみようとしても、またすぐに隠れてしまうのです。

実はそうした否定的な感情だけでなくて、心が温まるような愛?の感情も突然出てくることがありますが、これもまた長続きしてくれません。

きっと、自己防衛のシステムからすると、そうしたものさえも都合が悪いものだという判断がなされてしまうからかもしれません。

まだまだ自分の心には、隠し事がたくさんあるようです。それもまた、おつなものかもしれません。

真に成熟するとは?

私たちは人間として生まれて、当たり前のように大人の人間へと成長していきますが、実は人が人になるのには条件があるのです。

それは、物理的に人間として生まれて、大人の人間に育てられるということが必要なのです。ただ、人間として生まれても自我を持った人間に育てられなければ、一人前の人間にはなれません。

そのことは、狼に育てられた少年の事例を思い出せば明らかです。私の知っている例では、彼は背骨が曲がってしまっていてしっかりと直立して歩くことすらできない状態で発見されています。

教育を受けさせようとして試行錯誤しますが、彼は単純な言葉を発するようにはなるものの、その年齢の子供のようにはなることができませんでした。

人間として生まれたということは、単に一人の人物への成長する潜在能力を持っているということしか言えないのです。

幼児は、自然に親や周りの大人たちが話している言葉を理解し、自分も話せるようになっていきますが、それと同じようにして自分がここにいるという認識(自我)が芽生えるのです。

人間以外の何かに育てられたなら、自我は育ち様がないわけです。つまり、私たちは周囲に教わりながら、あるいは洗脳させられることで、一人の人間となっていくのです。

生まれながらに、人間であるわけでは本当はありません。つまり、作られたものだということに気づくことです。立派な人間になるための代償はあまりにも大きいものでした。

そうであるなら、作られる前の本来の自己、ただあるがままの自己に気づくことも可能なのではないでしょうか?オリジナルはそのままに在るからです。

その本質に気づくことこそ、一度人間として生きて苦しみぬいた我々が真に成熟することなのだろうと思うのです。

対立のない世界

恥ずかしい話しなのですが、中学一年生くらいまで、自分は朝起きて顔も洗わず歯も磨かず、髪は寝起きのままで学校へ行っていました。

着るものを気にするということもほとんどなかったのです。それが、年頃になって色気づいてきたと同時に、生活が変わりました。

週一回くらいしか洗わなかった髪は毎日シャンプーするようになり、ズボンプレッサーなるものを買ってもらって、毎晩寝てる間に制服のズボンに折り目をつけるようになったのです。

異性からどうみられるのかということが、急激に気になり出したというわけですね。それ以降、他人の視線が気になるということがなくなることはありませんでした。

ただ、一度だけ中学三年生のときに、理由は忘れたのですが髪をスポーツ刈りにしたことがあったのですが、そのときはものすごく楽でした。髪型を気にせずにいられたからでしょうね。

大学生になって自由を謳歌し出したころには、長髪になってポニーテールにできるくらいまで伸ばしていたこともあります。

また、人の視線を避けるために、一番濃い色の度付きサングラスを作って、それで生活していたこともあります。これは、電車に乗ったときなど非常に心地よかったのです。

相手からは自分の目が見えないために、当時感じていた軽い視線恐怖を感じずにいられたからです。これも、人からどうみられるかを気にすることから起きるものですね。

誰だって他人からどう見られているのかということが大なり小なり気になるものです。けれども、これは単に精神的自己防衛の結果なのです。

これを克服しようとするのではなく、感じる恐れをしっかりと見てあげることで、視線恐怖は激減してしまいます。

さらに、視線を内側に向けることで自分の本顔である、「何もなさ」に気づくことができれば、もっと他人からの視線に対する恐れが小さくなっていくのです。

相手の視線の先にあるものは、本当の自己ではないと分かるからですね。それは対立のない世界へと誘ってくれるのです。

正直に自分と向き合う

癒しを進めていくためには、ご本人が真剣に取り組むという姿勢がやはりどうしても必要です。したがって、ご家族の誰かが問題を抱えていても、ご本人が乗る気でなければセッションにいらしてもほとんど効果は期待できません。

特に、10代前半から半ばくらいのお子さんの場合には、まだまだ自分を癒していくという発想を持つことが難しいのです。私の経験では、10代後半でもまだ難しい場合が多いです。

ご家族が心配するのも無理はないのですが、焦ったところでいい方向に進むことには決してならないばかりか、ブレーキになりやすいのです。

お子さんの側が、問題が解決してしまえばそれでいいと思っている親の本音に気づいてしまうからです。

その問題は、本当の問題に気づかせるための単なる仕掛けであって、その奥にある目には見えない本人の心の叫びに気づいてあげなければならないのです。

そこに気づくためには、家族の方こそが見てみぬふりをしてきた自分自身の問題に目を向けることしかありません。

子供は、自分が犠牲となって家族というシステムの問題を映し出してくれているという観点を持つことが大切なのです。

そこに直面するのを拒絶するために、子供の癒しを進められずに終わってしまう親を何度も見てきました。

真に愛する家族のために、そして本当は自分自身の癒しのために、もう逃げることをやめて、一人ひとりが正直に自分と向き合うことなんですね。

至福の時間

昨年の12月にオフィスを引越ししたことで、いろいろなことが一度にドッと押し寄せてきて、それらが一応収束するまでに結構な時間がかかりました。

それでも今月に入ると、そうした煩わしい事柄がなくなってしまい、また今までどおりのごく平凡な毎日がやってきています。

その毎日とは、ほとんどやらなければならないことがないという、忙しく身体を動かしていなければ気がすまない人にとってはほとんど拷問のようなものに感じるかもしれません。

本当に毎日何も特別しなければいけないことがないのです。ただ、仕事の予約が入ったらそれに従ってセッションをこなしていくのみです。

そして時間のあるときには、スポーツクラブへ行って水泳少々と大好きなサウナに入るという毎日になりました。

今は、セミナーもやらなくなったし、講座もやってないですし、何一つイベント事がなくなってしまっているというのも、一役買っているのでしょうね。

まとまった時間を取って、瞑想に当てるということもなくなりました。その代わり、日々のあらゆる瞬間に、自分の本質に注意を向けることができるのです。

何も生産的なこともないのですが、私にはやはりこうした日々が合っているのかもしれません。サウナでの自己への注意は殊更意義深いものがあります。

いつしか、自分が身体であるなどという思い込みは、どこかへ行ってしまったようです。彼方に在る真の自己に憩うことが、至福の瞬間ですね。

自分の正しさなんて その2

いつのことだったか、アメリカの有名なフットボールの選手が、死ぬ間際のベッドの中で、「あれは、絶対タッチダウンだった!」と言って亡くなっていったということを聞いたことがあります。

つまり、本人にとっては大事な試合で得点を入れた瞬間だったのに、審判からは別の判定がくだってしまったために、諦め切れないでいたということですね。

その試合から亡くなるまでにどれくらいの年月が経ったのかは知りませんが、いつまでも悔しい思いを捨てられずにいたということです。

それと比べたらはるかに小さな思い出なのですが、小学生のころに鬼ごっこをしていて、自分が鬼のときに必死になってある友達を追いかけた末に、背中にほんの少しだけ触れることができたのです。

その指先の感触を今でも覚えているくらいです。けれども、相手にはそれを伝えてもそれをまったく認めてもらえず、それ以外のどの友達からも同じ反応しかもらえなかったのです。

彼の背中の部分の服の一部に明確に手が触れたのですが、それは誰にも認めてもらえなかったというわけで、しばらくは悔しい気持ちが残っていたのを覚えています。

自分は間違ったことを主張しているわけではない、自分は絶対に正しいと思ったのですが、でも今思えば自分の正しさが大事だったのではなくて、聞き入れてもらえなかったことが悔しかったのだろうと分かります。

人は、正しかろうと正しくなかろうと、そんなことよりも自分のことを受け入れて欲しいという思いが強いということです。

それなら、そのことをしっかり認めてしまえばいいのです。そこをあやふやにしておいて、自分の正しさばかりを前面に押し出していても、不満はつのるばかりになってしまうでしょうね。

自分の正しさなんて

このブログにも以前書いたことがあるのですが、ある女性が入院している病棟でそれはひどい理不尽な待遇を受け続けるという映画を観たことがありました。

看護士も医者も堂々と意地悪をして、不必要な注射は打ってくるし、とにかくこんな病院からは一刻も早く抜け出したい一心で、見舞いにやってくる父親に必死でそのことを話すのですが、一向に伝わらない。

観てるこちらもイライラしてしまうのですが、そのうち何かのきっかけから急に周りの人たちが親切になったと思ったら、見舞いに来ていたのは父親ではなくて彼女のご主人だったとわかるのです。

つまり、そこは精神病院の病棟だったわけで、彼女の「攻撃されてる」妄想がそのまま映像になっている映画だったというわけです。

彼女の目には、本当にひどいことをされているように映っていたのですから、彼女の反応も当然のものだったのです。

昨日観た映画でも似たようなことが描かれていました。長いこと孤独だったある老人がいて、彼は隣に引っ越してきた婦人に好意を寄せられ、二人は急激に親しくなるという内容です。

彼は彼女のことを大好きになるのですが、突然連絡が取れなくなったりしてひどく気持ちを荒げてしまうのですが、実はその女性は長年連れ添った奥さんだったのです。

働いているスーパーの若いちょっと生意気そうな経営者も、実は彼の息子で、家族みんなで彼の病気を心配していたのです。

人は誰でも自分の理性を信じて生きています。自分は、物事を正常に判断できる正しさを備えているとして生活しているのです。

それが自分のワールドですね。その正しさを過信してしまうと、自分のワールドの外にも世界があるということが分からなくなってしまうのです。

正しさには意味がありません。正しさは正しくない人が周りにいて、初めて自己防衛のために役立つものだからです。そんなものにしがみついていては、相手やこの世界をあるがままに見ることができなくなってしまいます。

正しさに価値を見出さなくて済むようになれば、それだけ心は平安になるでしょうね。なぜなら、自分の周りに正しくない人がいなくなるのですから。