自分へ伝えたいこと

幼稚園に入った頃の自分へ伝えたいこと:

あれほど何でも言うことを聞いてくれていた母親が、突然君の願いを受け入れずに幼稚園に行かそうとしてきたのには、ホント参ったし悲しかったね。

でも君は膝が痛くて歩けない病気になって、長い間幼稚園に行かずに済んだじゃない。膝のことは心配いらないよ、半年もすると元気になって、幼稚園も好きになるのだから。

小学生の頃の自分へ伝えたいこと:

気がついたら君は、正義の味方のような男の子になってたね。あれはちょいと辛かったよな。夜一人で反省会するんだったしね。

でも大丈夫だよ、5年生くらいから徐々に要領よくなって、適当に人生を楽しめるようにもなるから。それと、中学生になったら勉強しなくても成績よくなるぜ~。

社会人になった自分へ伝えたいこと:

今いる会社にずっといるわけじゃないから安心して。それとね、これは超極秘事項だけど、意外に早く会社員生活は終わりを迎えることになるよ。

そして、君は一人で好きな仕事をするようにもなる。そのときにね、概ね欲しいと思っていたものや体験が手に入ってしまうから、驚くなよ!

10年後の自分へ伝えたいこと:

過去の自分のことを思い出すと、それなりに懐かしいのだけれど、最近過去も未来もものすごく遠くに薄ボンヤリとあるような気がして…。

だから、君にとったら今の自分なんかもっともっと希薄な記憶の断片になってしまうんだろうね。それとね、10年後の君が今の自分と少しも変わってないということも知ってるよ。

なぜなら、自分は生まれてから一度も変わったことなどないのだから。いつもこの自分がいて、1ミリも変わらないし、変わるようなナニモノもないのだから。

思考中毒から抜け出すには

思考を見るというただそれだけで、心の騒がしさが一瞬にして静まるという事実を、時々みなさんにお伝えしています。

「心が騒がしくなってしまったら、自分の心の中にどんな思考があるのかを見てください。」といつものように説明したら、あるクライアントさんに「思考って何ですか?」と聞かれてしまいました。

そう聞かれて、一体思考って何なのだろうか?と問い詰めていくと、何だか分からないという結果になるのも事実です。

思考が何かを説明できないとしても、思考は一種麻薬のようなものだと言えるかもしれません。一度その魅力にとり付かれてしまうと、なかなかそこから抜け出すことが難しいからです。

一度麻薬に手を出してしまったら、いざやめようと思ってもやめられなくなってしまうということは、誰もが知っていることですね。

思考も同じかもしれません。思考の中でも特異なものである、自己と身体を同一視するという思考を一度作ってしまうと、気がついたときにはもうそこから抜け出せなくなってしまっているのです。

そればかりではありません。その同一視した思考は、次から次へと別の思考を作り出すものですから、思考そのものを止めるということすら難しくなるのです。

そうやって、子供から大人になるにしたがって、もうにっちもさっちもいかない、完全なる薬物中毒のような思考中毒状態になってしまうのです。

この思考中毒状態は、ほとんどが自己破壊的な防衛のために費やされるのですから、多くの先達が何とかして思考を止めようと四苦八苦してきた歴史があるのも頷けます。

でも本当に簡単なのです。ただ、一瞬立ち止まって、いったいどんな思考が今あるんだろうかと見ようとするだけで、思考は静かになってくれます。

嘘だと思ったら、試してみてください。そして、それを日々実践することができたら、煩わしい心の状態から短時間に抜け出すことができるようになります。

セラピーは気づきへのほんの入り口に過ぎない

いつか、それもそれほど遠くない将来に、もしかしたらセラピーをやめてしまうかもしれないという予感がします。

セラピストを生業としてやってきている立場で、こんなことを書くのは本当にどうかと思うのですが、何度も言うようにセラピー(心理療法)で人が本質的に変わることはないからです。

何の効果もないということでは決してないのですが、いたずらに最も大切なことに気づくチャンスを奪ってしまう可能性もあるのです。

癒しの初期の段階が、精神的自己防衛の中で始まるのは仕方のないことですし、それは悪いことでもありません。

自分のここが改善された、この困った症状が緩和されたといっては喜ぶのですが、それが次はもっとここをよくしたいという具合に、果てしなく続くのです。

なぜそうなるかといえば、それを続けることこそが自己防衛システムの目的だからです。そのことにどこかの時点で明確に気づかなければなりません。

一度体験した喜ばしい過去を思い出しては、それを次も繰り返そうとするのですが、それこそが物語のど真ん中を突き進むことになるのです。

そのことが問題なのではなくて、それだけで人生を終えてしまうのは勿体無いと感じるのです。生きている間に、自分の本質に気づくこと。

それに気づきつつ、同時に人生という物語を楽しむことこそが、奥行きのある毎日の過ごし方になるのではないかと思うのです。

セラピーは、そのほんの初期の入り口の役割しか果たすことはできません。お会いすることのできた多くのみなさんと、このことを分かち合いたいと思っています。

コントロールを手放す

自我が発生すると、すぐにここには自分がいて、その自分は周りにいる親や大人たちに支配されているということを悟ることになります。

支配されるということは、相手の意のままにコントロールされるということです。そのコントロールが、自分が望むことと違えば違うほど苦しむことになるのです。

可能性はゼロに近いですが、もしもコントロールが自分の好み通りであったなら、わざわざ自分が努力してコントロール権を勝ち取ろうとする必要はありません。

実際には、自分の思ったとおりのコントロールなどというのは決してないのですから、子供はどうにかしてコントロールを勝ち取ろうと努力することになるのです。

自分がコントロールしたい、コントロールできるはず、コントロールできたらいいのに、そういう強烈な願望を持って毎日を生き延びようとするのです。

それがある程度成功することもあるでしょうし、その一方でそううまくことが運ぶわけではないということも知るようになるのです。

それでも成功事例があることで、それをもう一度実現しようとして奮闘努力するのですが、それが本人を苦しめる結果となるのです。

この、できるだけ多くのコントロールを握っていたいという願望は、大人になっても色濃く残ることになるのです。それは、力を抜いて起きたことに委ねるという生き方とは正反対なものです。

いきなり、「すべては神の思し召し」というところに行けないとしても、少なくともコントロールを手放す気などないということに気づくことです。まずはそれを受け止めることです。

コントロールこそが、これまであなたを支えてきたとされる自己防衛システムの中枢にあるからです。残念ながら、コントロールしようとすればするほどあなたは傷つくことになってしまいます。

したがって最も大切なことは、究極的には自分には一切のコントロール能力など初めからないのだということに気づくことです。それが明け渡すという無防備な心の状態へとあなたを連れて行ってくれるのです。

物語の外に在る自己の本質に気づく

私たちの人生という物語は、問題を見つけてはそれを解決するということの繰り返しによって成り立っているのです。

私たちは、あらゆる不平不満を抱きながらも、こうした「問題→解決」という永久ループから一向に抜け出したいとは思わないでいるのです。

それがなければ、物語は成立しません。でも、その繰り返しにホトホト疲れてしまったというのでしたら、本当はその物語の中に自分はいないということに気づくことです。

物語というのは、思考の中にしか存在しません。勿論、その物語の主人公としての自分という存在も、同様にしてその思考の中だけに生きているのです。

一時的にでも、その思考から抜け出すことができたなら、そこには当然のようにしてここにいると信じていた自分はいないということに気づくことになります。

自分に対して、そのように物語の中にはいないという体験を何度もさせてあげることです。そうやって、ナニモノでもない自己への注意を通して、無防備に物語を見ることができるようになるのです。

問題を解決するという自己防衛のシステムを見限って、それが物語りを永続させているということを悟って、物語の外に在る自己の本質に気づくこと。

それは何物にも代えがたい、真に落ち着いた心の状態へと連れて行ってくれるのです。やることは簡単、時々思考を見、自分とは?という問いを繰り返すだけ。

そうした心の行為が、過去と未来を往復する思考をストップさせて、注意を今に固定してくれるのです。試す価値はあると思いますよ。

被害者で居続けたいという思いに気づく

人は誰でも、幼いころになんらかの理由により、傷つけられた、被害に遭ったという思いを持っているものです。

その気持ちや感情をしっかりと受け止めて、感情を味わって開放するために催眠療法などによって過去に戻るのです。

どんな人でも、子供のときの惨めな思いや情けない自己嫌悪、そしてひどい目に遭ったという被害者としての立場を強く残しているのです。

そのことをしっかりと思い出してあげて、ありのままの感情を真正面から引き受けてあげることで、その当時の子供の意識は救われるのです。

けれども、大人の自分がいつまでも被害者の意識を引きずってしまうと、どれほど催眠療法で感情を見に行ったとしても、癒しには繋がらないのです。

癒しの大切な要点として、どこかの時点で自分は被害者ではなかったという事実に気づく必要があるのです。

自分も被害者ではないのと同様に、周りの大人たちも加害者ではなかったということにしっかりと気づくことがとても大切なのです。

いつまでも誰かのせいにしておきたい、自分は決して悪くない、このような気持ちが強く残っている限りは、被害者の立場を失いたくないと思っているのです。

そのことに気づいて、所詮悪者はどこにもいないということがはっきりすれば、そこでようやく大きな癒しがやってきてくれるのです。

近すぎて理解不能なもの

子供の頃から、自分で自分のことをじ~っと見つめてみるという癖がありました。それをやっていると、必ず何とも言えない気恥ずかしさがやってくるのです。

隠していたつもりはないのですが、普段は見ずにいた自分自身との対面は、不思議なことに恥ずかしいという感覚なのです。

それはちょうど、いつもみんなでワイワイやっている仲間同士なのに、ふと二人きりになったときに互いに何を話せばいいのか分からなくなる、あの気恥ずかしさに似ています。

その恥ずかしさにたどり着くまで、じっと自分で自分を見続けるという変な癖があったのですが、最近その感覚がどうもなくなってしまったようなのです。

以前のようにして、いくら自分を見続けてもその感覚はもう戻ってこないのです。その代わりと言ってはなんですが、感覚の広がりに気づくようになったのです。

内側を深く見つめていくうちに、人物としての自分を通り越して、その奥に広がる本当の自己にその矢が刺さるとき、いきなり自己が拡大するのです。

それは、「自分とは一体なんなの?」という問いかけを徹底的にやり続けたときのあの感覚と同じなのです。

終点となるナニモノもないのですが、全体性へとシフトしてしまうのです。なんだ、そうだったのかと分かる瞬間ですね。

近すぎて理解不能なところ、それこそが真の自己の姿なのでしょうね。

男性は孤独に瞑想することで、女性は愛を通して覚醒するのです

恋愛相手に心を奪われて、寝ても醒めてもその人のことを想い続けてしまうようなことは、誰でも一度や二度経験があるかもしれません。

それは何も10代20代の若者だけが罹る恋の病ではありません。何歳になっても、誰かに恋をし、その人に魅了されてしまうことがあっても不思議ではありません。

けれども、そこには男女の差があるのです。男性も女性も、意外とその性差については分かっているようでいて、本当には分かっていないことが多いのです。

そもそも、一般的に言えば、男性は長期に渡って恋愛に溺れてしまうということがありません。愛よりも、仕事や社会的な活躍を通して自分に満足を与えようとするのです。

一方で、女性は人生の中心に愛がなければならないと感じているのです。自分の価値を愛されることで認識しようとするのです。

勿論こうしたことは、一般的な傾向であって、相当な個人差があることも事実ですが、私の経験ではかなりの確率でこの傾向は当てはまると言えます。

男性にしても女性にしても、こうした違いを互いによく理解し合っておくことができると、無用なトラブルを避けることもできるのです。

男性は、好きな人と一緒の時間を持つことに対して、それほど重要視してるわけではありません。だから、女性のようになるべく愛する人と一緒に居たいという思いが比較的少ないのです。

女性は、好きな人とあらゆる体験を共有したいという気持ちが強くあるのです。だから、男性の素っ気ない態度を見て、愛されていないかもしれないと不安になってしまうのです。

男性は孤独に瞑想をして覚醒していくタイプであり、女性はそうした男性との愛を通して覚醒していくのです。

どちらも優劣で捉えることはできません。そして、覚醒の間際には、男性も女性も互いの不足を補い合うことで、まったく同じところに立つことになるのです。

思考と純粋な意識の違い

一般的に、意識とは目覚めていて一定の精神活動を行っているという自覚があることを指すと言っていいと思います。

私たちは、「意識がある」という表現を使いますが、この場合の意識とは自分のことを自分だと分かっている自覚のことです。

けれども、もう少し正確に表現すれば、それは思考にほかなりません。ごく普通の精神状態においては、意識があって思考がないということはないからです。

そのことをよく見つめてみると、ここに自分がいるという自覚は思考そのものだったのだということがはっきりするのです。

そして、裏を返せば、思考が活動を停止してしまったら、目覚めていたとしても「自分」という自覚は消えてしまうということです。

つまり、「私」という自覚は思考の中で起きていることでしかないということです。私たちは肉体のことを自分だと思い込んでいるのですが、実は思考であったということです。

その自分とは、人物としての、個人としての自分のことを指します。個人としての自分の正体とは、何のことはないただの思考だったということです。

このことと正面から向き合って見ると、大変なショックを受けるかもしれません。なぜなら、自分の実態がただの思考に過ぎないのですから。

でも、安心してください。思考のないところ、その外側に在るものこそが、本当の本当の私たちの本質なのですから。

それこそが、純粋な意識、純粋な気づきとしての私たちの真の姿なのです。一日のうち何回でも、そこへ注意を向けていることができるといいのですが…。

心の基盤にメスを入れる勇気

心を癒していく過程において、もっとも重要なことは、自分の信念や信条、考え方や信じていることなどの外側にあると思われることを拒絶しない姿勢です。

癒されるときには、必ず長年培ってきたものに対する心理的なパラダイムチェンジを必要とするからです。それがなければ、どんな変化もうわべだけの浅いものに終わってしまいます。

今の自分を癒していくためには、今の自分を作り上げた心の基盤を脇に置くという勇気がどうしても必要になるのです。

今の自分や自分が抱えていると思い込んでいる問題は、たまたまそれがそこにあるわけではないのです。それは自分自身の生き方の結果としての当然の帰結であると気づくことです。

自分の主義主張、正しさ、信じているもの、そういったものはそのまま温存しておいて、癒しが進んでいくということは決してないと理解することです。

残念ながら、セラピーにいらしたクライアントさんの大多数は、自分に都合のいい癒しの方法だけを期待しているのです。

追い詰められて、そんなことはもうどうでもいいという状態になれた人は、そうした理由から比較的容易に癒しが進むのです。

誰でも自分の内側にある心の基盤を守ろうとするものです。それはエゴの本質でもあるので仕方のないことですが、思い切ってそこにメスを入れることです。

それは、セラピストのサポートがあろうとなかろうと、結局やれるのはクライアントさん自身でしかないということですね。