信じている限り物語から抜け出せない

私たちの誰もが物語のことが大好きなのですが、その物語のそもそもの始まりは何かを信じるということから開始するのです。

信じるという心理的な行為がなければ、物語は存在することができません。信じることの連続によって、時間の流れを感じるようになるからです。

その時間の中においてのみ、あたかも物語が進行しているように感じることができるのですが、私たちは信じているということを忘れてしまいます。

そうやって、目の前に繰り広げられている物語がまるで真実であるかのように見てしまうようになるということです。

この現象界に物語があるのではなくて、自分の心の中にこそでっち上げられた物語があるということを見抜くことです。

それなくして、物語から抜け出すことはまったく不可能になってしまいます。物語の中にいるという錯覚が続く限りは、本当の本当の自分の本質に気づくことはできません。

私たちはあるがままを見ているつもりになっているものの、実際は自分が信じ込んでいるものを事実だとして見ているに過ぎないのです。

自分があらゆる物事を信じている、あるいは信じていない状態であるということに気づくことです。その一方で、真実を信じることはできません。

真実は信頼することしかできないのです。信頼は時間を必要としないし、対象物があるわけでもありません。ただ在るということに気づくことこそが信頼なのです。

そこにはどんな物語も存在しません。すべてが私たちの本質からやってくる、瞬間ごとの細切れの現象なのです。それが今という真実ですね。

「何もなさ」こそが森羅万象の源泉

そっと目を閉じて、心を静かにして思考では捉えることのできない「何もなさ」を感じてみてください。それはとてもすばらしい体験です。

そして、ゆっくりと目を開いたときに、目を閉じていたときの「何もなさ」がそのまま残っていることを感じ取ってみることです。

私たちは、本当は目を開けているときも目を閉じているときに見ている「何もなさ」を見続けているのです。そのことに気づくことです。

それは映画館で映画に熱中している間にも、実はスクリーンを凝視しているのだということに気づくことに似ています。

その「何もなさ」には思考も、その思考が必要とする時間や空間さえもありません。それなのに、この現象界で起きるあらゆることを含んでいます。

それはあらゆるジャンルのどんな映画でも、たった一つのスクリーンに投射され得ることと同じだと言えます。

「何もなさ」とは、この現象界で起きているすべての土台であり、源泉でもあるのです。時間や空間、そして物質や自分がここにいるという思考も全部がそこからやってくるのです。

思考では、ただ「何もなさ」と表現するしか手立てがないのですが、真実はそうではありません。森羅万象の源泉なのですから。

慣れてくれば、わざわざ目を閉じなくても、ごく普通に周りの現象を見つつ、「何もなさ」に注意を向け続けることもできます。

それが本当の意味での明け渡しであり、物語から開放されて自由になるということなのですね。

逃げずにただ見れば問題は消失する

長く生きているといろいろなトラブルというものに出くわすもので、その大半は相手が悪かったり、相手も自分も悪かったりなのですが、今日勃発したトラブルは何と全面的に自分のせいだったのです。

自分の身勝手な勘違いというやつです。それで、見ず知らずの人に大変なご迷惑をかけてしまったという物語なのですが、こういうこともあるのですね。

加害者と被害者のどちらがいいかといえば、圧倒的に被害者のほうが気持ちが楽なわけです。なぜなら、被害者は文句を言っていればいいだけですが、加害者(迷惑をかけてしまった側)は、いろいろとやっかいです。

そういうこともあってか、いままで多くの場合に自分が被害者の立場であったように記憶しているのですが、今回の件は明らかに自分が加害者側だったので、本当にびっくりしました。

自分だけはそんなことになるはずはないと、ある種高をくくっていたようなところがあるのですが、不注意によって誰でもが簡単に迷惑をかける側になり得るということを、あらためて認識し直すことになりましたね。

加害者側になるという物語は、今までの人生の中でそれほどの経験がないので、言ってみれば慣れてないのです。

もちろん物理的な謝罪と、心からの誠意を持った謝罪の両方を充分にしようと思っているのですが、ただ罪悪感はありません。

罪悪感は、ほかの否定的な感情と同じように、逃げずにとことん感じきることができれば自然と消え失せてしまいます。

何からも逃げないでいることができれば、解決すべきことは一つ残らず消えていってしまうということですね。

思考を見ることで平静さを取り戻す

昨日のブログに書いた方法が苦手だという方もいらっしゃるかもしれません。そういう人のために、別の方法をお伝えしたいと思います。

私たちが平静な心から逸脱している場合というのは、間違いなく思考に巻き込まれている状態であるといって構わないと思います。

平静ではいられないからこそ思考が目まぐるしく働くことになるのか、それとも思考がグルグル回転しているから平静さを奪われてしまうのか。

どちらにしても、平静さを取り戻すためには思考の働きを緩めることがとても大切であることに変わりはありません。

そして、そのための最も簡単で効果的な方法とは、自分の中にある思考を見るということです。思考を外側から眺めてあげるのです。

その眺める側も思考には違いないのですが、そのことに注意を向けていることで、やってくる思考に乗っ取られてしまうことが激減するのです。

コツは、思考の中身を深く追求するのではなくて、こんな思考が今あるなあという程度に、思考を外側から大雑把に見てあげるのです。

思考を見ることに注意を向けていることで、別の思考に巻き込まれることが本当になくなっていくのです。一度でもやったことがあれば、うなずけるはずです。

自分の思考について見るということを日常的に練習することで、やってきた思考に巻き込まれることがなくなっていくということです。

そうなると、物語の中で右往左往している自分に深く気づくことができるのです。そして、どんなことも否定することができなくなってきます。

それは本当に清々しいものですね。

原点に立ち返る

毎日の生活に忙殺されて、なんとなく落ち着いた気持ちになれなくなってしまっていたり、日々起こることに翻弄されてしまうこともありますね。

そういうときには、原点に戻ることがとても有効です。私の場合には、どうするかというと、「自分は今どこにいるのか?」という質問から始めます。

本当に具体的にどこにいるのかを見つめるのです。感覚としては身体の中にいるように思うかもしれません。

もしも、頭の中にいるように感じるなら、その頭の中をかち割ってそこを解剖学的に想像してみるのです。そして、本当にその中に自分が潜んでいるのかどうかを検証します。

そして、いつものようにやっぱりそんなところに自分はいないということが明確になります。それでは、一体自分はどこにいるのか?

もし、身体の近くにいるのだとしたら、その大きさは?形は?ここまでが自分でここから先は外部という境界を見つけることができるのか?

どこをどう探してもそんな境界は見つけることができません。ということは、自分には大きさも形も色も、そして位置さえもないということになります。

その瞬間、自分の意識が無限大に拡大した状態になっていることに気づくことができます。この感覚は誰にでもあるはずのものですが、それを否定する防衛システムに負けていると気づけなくなるのです。

目を閉じていようが開けていようが、自分の気づきは全体性だということに気づくことができます。それが「無」であり、何も知らないという感覚です。

ここまでくれば、日常的に心を奪われた状態から、正常な気づきの状態へと戻ることができます。それが本当に落ち着くということですね。

いつでもどこでも簡単に検証することができるので、とても便利ですから是非試してみてください。

自我と心理的自己防衛

私という人物がここにいるという思いと、自分のことを守りたいという思いとはほとんど一つのものであると考えて差し支えありません。

その二つの思いを切り離して、別々に持ち続けることができないからです。この二つの思いが合わさったものを一般的に自我(エゴ)と呼びます。

人間の成長過程の中の幼少期に、まず初めに「これが自分なんだ」という思いが生まれることになるのです。

ほかの動物と人間との一番の違いはこの点にあります。ほかのいかなる動物も、「自分」という明確な思いを持っていません。

もしかしたら、ボンヤリとしたものを持っている高等動物がいるかもしれないということを否定する必要もありません。本人に聞いて見なければ実際のところはわからないわけですから。

けれども、我々人間のような自我を持っている動物がいないことは明白です。なぜなら、人間のような心理的自己防衛をする動物がいないからです。

生物としての本能的な防衛と人間だけが行う心理的防衛がいかに異なるものかを理解すれば、人間の自我が特別だということがはっきりします。

その心理的自己防衛の真の目的は、本当の自分の姿のことを忘れ、それから遠ざかったままでいるということです。

勿論表立った目的は、人物としての自分の命を守るということに見えるのですが、それは本当の自分を騙し、自我を存続させるために過ぎません。

だからこそ、私たちは本当の自己の姿が常に目の前より近くにあるのに、それを認めようとしないのです。

この自分のことを守りたいという心理的自己防衛が、それ自体のカラクリを本人に隠そうとすることを見れば、それが如何に真理とは正反対のものであるかがわかります。

嘘は嘘でかためておかなければ、すぐにその本性がばれてしまい、あっという間に消えていってしまうからです。

自分という自我も、それを守ろうとする心理的自己防衛もそういうものだということにはっきりと気づくことです。そうすれば、人は苦しみから解放されるのですから。

本当の自己の体験したいこと?

昨年末のオフィスの引っ越しで、相当な出費がありました。ある程度は予想していたのですが、それでも元々が財政難のための引っ越しだったわけで。したがって、なかなか辛いものがあります。

それがまたここへきて、どんどんお金が外へと流れ出て行っているように感じるのです。そこには勿論自分でも自覚している自分の行動にも原因があるのです。

それでも、そうしたことも何となく責任逃れをするつもりではないのですが、何かの力が働いているように感じてしまいます。

なんだか、所持金ゼロへの道を真っしぐらに突き進まされているように思うのです。必要に応じてそれなりにコストがかかるのは仕方のないことです。

けれども、そうしたことが沢山重なってくると、どうも天の方を見て、あの~って恨めしく言いたくもなってしまいます。

10分くらい前に、10年くらいだましだまし使ってきたパソコンのハードウェアがどうも壊れてしまったらしいことに気がついてしまいました。なので、タイピングし辛い ipad で今書いています。

そろそろ新しいパソコンが欲しいなとは思っていたものの、この時期いろいろ物入りなのでもう少し様子を見ようと思っていた矢先のことです。

下取り車の方が高価だった新顔のクルマにカーナビをつけようと思ったら、予想をはるかに上回る出費になりそうだし。

ここのところ、スマホで通話することが著しく増えて、その通話料も心配だし、何もかもがドンドン自分の懐から流れ出て行くように見えるのです。

この経済的不安感は、ときどきやってくるのですが、その度にじっくりと見てあげることで、あっという間に消えてしまうということも知っています。

それがなかったら、なかなか大変だっただろうなと人ごとのように感慨深いのです。さて、今年の自分からはどれだけのものが奪われていくのか、じっくり眺めることにしようと思います。

それが、本当の自己の体験したいことであれば。

「傷ついてもいい」は最強

つい最近のことですが、6年間お世話になった愛車に別れを告げて、代わりに新入りのクルマが私のところにやってきました。

別れたばかりのクルマは、とても図体が大きくて、自分では動く応接間だと思っていました。眺めもいいし、自然とハンドルを握る自分の気持ちもゆったりとするのでした。

それに比べて、今度のクルマはものすごく極端に寸の短いクルマで、駐車場のスペースの半分くらいしか占有しません。

それはそれはとっても可愛い、まるで子犬のようなフォルムなのです。けれども、どうも今までのようなゆったりした気持ちでは運転できないのです。

つい先ほども体験したのですが、どうも周りのドライバーさんたちから若干舐められているような感じがするのです。それも結構頻繁に。

たとえば、一般的にいって、狭い道路で向こうから大きなクルマが来たと思ったら、ちょっとアクセルを緩めるのが人情というものです。

けれども、逆に子犬のような奴がやってきたら気にせずそのまま向かっていくのでしょうね。おちびチャンは止まってな!という感じなのでしょう。

こうなると、今までのように無防備に運転するわけには行かなくなったのです。周りを気にして、オーバーにいえばビクビクしながら運転しなければならないのです。

以前学生のときに引越しのためにトラックのレンタカーを借りて運転したことがあったのですが、かなり強引な割り込みをしても周りが譲ってくれるのを感じましたね。

トラックなんて、少しぐらい擦ったってどうってことないわけですから。悠々たるものです。やはり、少しぐらい傷ついてもいいというのは最強なのですね。

一方、「傷つきたくない」は、自分を苦しめることになってしまいます。子犬のようなクルマだとしても、傷ついてもいいという気持ちになって、悠々と運転したいものですね。

強靭な防衛システム

私たちが3歳くらいから作り出した自己防衛システムは、ネガティブな感情を見ないように仕向けてくるので、それが成功すればするほど感情を蓄積することになります。

こともあろうに、実は自己防衛システムの原動力は、その溜め込んだ感情というエネルギーであるから始末が悪いのです。

つまり、一度作りこんだ防衛システムというのは、それを使い続ければそれだけ自己増殖するようにできているということです。

その結果、本当は必要ではない場面であろうとも、とにかく防衛システムをそれ自体が稼動させたがるために、過剰防衛をすることになってしまうのです。

そしてそれがまた、防衛システムを強大なものへと進化させていくことになるのです。もうお分かりだと思いますが、幼いころに作り出した防衛システムは手に負えないのです。

防衛システムの本当の目的は、恐ろしいことにその防衛システムを存続させることになってしまうのです。決して自分を守るということが目的ではないのです。

けれども、そのことを本人が気づけないようにと用意周到なやり方がなされるのです。つまり、自分が防衛していることに気づくことができないようにさせられてしまうのです。

こうして書いてみると、向かうところ敵なしの磐石なシステムのように見えますね。しかし、本当のところはどうかと言えば、決定的な弱点も持っています。

それは、一度気づかれて化けの皮が剥がれてしまえば、意外に脆いものでもあるのです。そして、もしも心が無私の状態になったなら、それは使われなくなる運命にあるのです。

みなさんは、自分の防衛システムにどのくらい気づいていますか?そして、それをいつまでどのくらい稼動させたいと思っているのでしょうか?改めて、自分自身に問いかけてみてください。

思考に使われるのではなく、それを活用する側になる

思考に巻き込まれている人の話しというのは、どんなことがあったとか、こういうことが起きていやな思いをしたなどという物語の内容が中心となります。

その物語の中で、自分がどんな気持ちになったのか、どういう被害を蒙ったのかなどということが延々と語られるのです。

それに対して、思考そのものを見ることができる人は、どんなことがあったという物語そのものに話題の中心が向くということがないのです。

それよりも、そういう物語を見ている自分に気づいているのです。思考と物語はそのまま対応関係にあると言ってもいいくらいです。

思考そのものを見る側にいる人は、物事が起こっている地上に目が行く代わりに、地面の下の見えない部分に意識を向けることができるのです。

奥深くでは何が起きているのかという視点とも言えるかもしれません。表面的な出来事に右往左往するのではなくて、その大元に目がいくということです。

そうなると、視点が定まり、あれこれと動揺することが少なくなってくるのです。思考の働きが緩んできて、大きな全体を把握しているような感覚になりますね。

自分が理解している何もかもが思考の中でのことだったと分かって、そのことを認めることができれば、さらに心は穏やかに落ち着いてくるのです。

そうなれば、もう思考を恐れることはありません。思考は便利なただのツールとなるのです。思考に使われるのではなく、それを活用する側になるのです。

そうなったら、思考はもう自分の邪魔をすることもなくなります。思考から開放されれば、あらゆることが自分の味方に感じられるはずです。