自分の本質に気づかないなんて勿体無い

私たちの本質が、思考では決して認識できないもの、理解を遥かに越えているものだということ、このことに気づかずに死んでいくのは何としても勿体無いのです。

もちろん、これは気づくことが正しくて気づかないことが正しくないということではありませんし、気づくことと気づかないことに何の優劣もありません。

なぜなら、私たちは「それ」ではなかったためしがないからです。最初(というのもないのですが)からずっと「それ」であり、これからも永遠に「それ」なのです。

ですから、そのことに気づこうが気づかないでいようが、そんなことは本質的にはどうでもいいことだとも言えるのです。

けれども、実質的なことを見てみると、自分の本質に気づいている人はそうでない人よりも多くの点で有利なのです。

たとえば、どんなときでも深刻になり過ぎてしまうということがなくなります。深刻になったとしても、きっとほんの短い間でしかありません。

ずっと深刻さを持ち続けるなどということは不可能なことになるのです。なぜなら、私たちの本質である「それ」は、決して傷つくこともないし、生まれることも死ぬこともないからです。

そのことに深く信頼することができればそれだけ、自己防衛は確実に減っていくことになるはずです。防衛しようとする自分を冷静に見つめることもできるようになっていくはずです。

そのことによって、苦しみから解放されるようになるのです。やってくる痛みから逃げなくなれば、その痛みはいずれは去っていき、今度は喜びがやってくるのです。

個人として生きる限りは、エゴはなくならないでしょうけれど、そのエゴをやさしい眼差しで見つめることができれば、人生は面白い物語となるはずです。

静かな恍惚の中で寛ぐ

自分の本質である純粋な意識に注意を向けて、言葉にはできない「それ」を心の限りに信頼することです。

「それ」は必ずその信頼に応えてくれます。どのようにして応えてくれるのかは、私たちの想像を遥かに超えているので形容することは不可能です。

それでも、確実に「それ」は応えてくれるのです。物理的な現象のレベルであろうと、肉体的な問題であろうと、精神的なことであってもです。

自分の都合のいいようにやってくれるということではありません。ただただ、人間業ではないだろうということだけは、知ることができます。

そのことを「奇跡」と呼んでもいいかもしれません。そしてその「奇跡」には限度がありません。それは畏敬の念を呼び起こすかもしれません。

それが私たちの本質であるということは、なんと言う奇跡なのでしょう。思考の手の届かないところ、理解できない未知の領域からこの宇宙が毎瞬創造され続けているのです。

私たちにできることは、それをただ喜び、驚き、それによって満たされることです。それ以外に何ができるでしょう。

静かな恍惚の中で、ゆっくりと寛いでいられることに深く感謝せずにいられません。

分離不安と全体性

何度も繰り返しお伝えしているとおり、私たちの本質は全体性であり、したがって生まれてからしばらくの間はその状態のまま生きているのです。

けれども、人間だけが3歳前後になると、親からの分離を意識するようになり、結果としてそこから個体としての自分に目覚めることになるのです。

その過程で感じる不安のことを分離不安と呼びます。全体から個体へとうまく自分を騙して推移できると、立派な個人への道が待っています。

しかし、本人の生まれ持った気質や、安心できない環境などの理由によって、分離を認められずに成長していくケースもあるのです。

つまり、分離すると錯覚することの恐怖が大きすぎて、それを認めることができないのですが、その奥ではやはりここに自分がいるという分離した個人でもあるのです。

この中途半端な状態が、その後の本人を苦しめることになります。心の中はどうなっているのかというと、全体性をどこかで忘れずにいて、それとは別に個人であり、かつそれを認めたくないという曖昧な状態なのです。

分離してしまっているということをどこかであきらめつつ、それはあまりにも恐ろしいのでそれを認めずにいるという葛藤です。

そのために、大人になってもフワフワとした精神状態が続き、場合によっては自分から抜けてしまっている状態、つまりグラウンディングができてない状態のままでいることもあります。

癒しの順序としては、まず忘れずにいる全体性の感覚を一度脇へ置いて、分離の恐怖をしっかり見ることです。そうやって、恐怖を小さくすることができれば、個人としての自分の居場所が明確になります。

その上で、忘れずにいたあの全体性の感覚をしっかりと思い出すことです。はっきりとした個人としての意識と全体性を同時に感じることで、人生の捉え方が大きく変化するはずです。

純粋な気づきへの100%の信頼

ゆったりと寛いで思考の働きを徐々に緩めていくと、ただ在るということだけになっていきます。それは精神的な活動が激しいと、すぐに隠されてしまう精妙なものなのです。

急いでいたり、この場を何とかしなければならないと考えていたり、何かに集中していたり、そうしたあらゆる精神活動が邪魔をするのです。

街の喧騒の中では、小さな鈴の音がかき消されてしまうのに似ています。けれども、誰であってもそれを感じることはできるのです。

なぜなら、その静かな気づき、ただ在るというこの感覚は、すべての人に共通のものに違いないからです。

ただ在るという気づき、何かが在るというのではなくて、これ以上シンプルにはなりようのない、ただ在るということ。

そしてその気づき自体が私たちの本質なのですね。何かに気づいている私がいるのではなく、その気づき自身であるということです。

今日一日がどんな日であったとしても、一日のどこかで必ずこのことに意識を向けることを忘れないことです。

個人としての自分は、どうしても目の前の現実に飲み込まれてしまうようにできています。だからこそ、敢えてこの気づき自身である自己を観るようにするのです。

その純粋な気づきへの100%の信頼があれば、どんな物語であってもそれを心から楽しむ余裕ができるはずです。

癒しの原点

まず始めに必要なことは、自分も含めて誰の心も一枚岩ではないということに気づくこと。自分が把握している自分は、自分全体の一割にも満たないということ。

そのことに気づき、それを認めて、そのことを心から受け入れることです。いわゆる潜在意識とか無意識という領域があり、その力が絶大であるということです。

その見えない意識の中が沢山の部分に分離していて、互いが足の引っ張り合いをしてしまう時に、葛藤というものが起こるのです。

面倒なのは、それがぼんやり感じるレベルから、全く気づくことのできないレベルまであるということです。幼いころの恐怖やそこから発生する様々な感情は、概ね気づきにくくなっています。

なぜなら、気づけば苦しむことになると思っているからです。そうした思いすら、抑圧されているために、本人は気づけない場合がほとんどです。

けれども、そのネガティブな感情の存在に気づき、それを認めて、充分に受け入れることができれば、潜在意識の奥深くへと隔絶していた状態から、それを引き寄せることができます。

その上で、最終的にはただ受け入れるというよりは、その感情と一つになるようにするのです。つまり、それから逃げも隠れもせずに無防備に味わうのです。

そうすることで、潜在意識の中に埋もれていた感情というエネルギーが浄化され、それが暴れることで起きる不都合や苦しみが減少していくことになるのです。

もしもあなたが、過ぎ去った過去など見ずに、前を向いて進めばいいんだと思っているのなら、是非次のことを知って欲しいと思います。

それは、知らず知らずのうちに隠してしまった過去をそのままにすれば、必ず過去に苦しんでいた幼い自分が、過去からあなたを乗っ取りにくるということです。

私たちは、いつまでもそれを押さえ込んでいることはできないのです。それはどれほど努力しても、頑張って打ち勝とうとしても無駄なことです。

そしてとうとうどうやっても逃げおうせないと気づいたときに、ようやく癒しの第一歩がスタートするのです。勿論それでも決して遅くはありません。

いついかなるときにも、人生のどんな局面であろうとも、癒しを始めることはできるし、それが自分に正直になるということなのです。

私たちは結果の世界に生きている

この世界、このあらゆる現象が詰まった世界とは、すべてが結果なのです。私たちの思考だけが、この世界の中に原因と結果を見い出してしまうのです。

思考は、論理を使って理解ということをし続けたいので、因果というものをでっちあげるのですが、その思考すら結果でしかありません。

一体何の結果なのかというと、源泉という原因からやってくる結果なのです。あらゆる森羅万象が起きる根本原因は、この世界の中にはありません。

それはちょうど、私たちが観る映画と同じです。映画の内容がどうであれ、それはすべて撮影した結果でしかありませんね。

その映画の物語の中には起承転結があるかもしれませんが、それらは撮影した結果でしかないということは自明です。

あるいは、あなたが夜寝ている間に見る夢がありますが、その内容がどうであれそれはあなたが夢を見ている結果です。

夢の内容のすべての原因は、あなたが夢を見ているということですね。この世界もそれと全く同じだということです。

そして源泉こそが、思考を超えた真実です。その理解を越えた源泉から、毎瞬ごとにやってくるものがこの世界で現象化するということです。

そうやって、私たちはすべての大元である源泉からやってくる結果の中で暮らしているのです。だから、その源泉にすべてを委ねればいいのです。

自分の身は自分で守らねばならないということを忘れることです。そうすれば、不必要な苦しみから解放されて、無防備な愛の中で生きていくことができるのです。

真実は表現することもイメージすることもできない

どれほど真実を表現しようとして言葉を並べても、残念ながら真実を伝えることはできません。なぜなら、言葉は思考からやってくるからです。

思考をどんなに駆使したところで、所詮思考の枠の中でのことだからです。世界一信頼されている経典に書かれている言葉であっても、それは同じこと。

決して真実を表すことなどできません。たとえば、すべては「無」であるというとき、それは真実は何かではないということをいいたいに過ぎません。

私たちが考える何かではないということだけははっきりしているので、なにものでもないということを言いたくて「無」と表現しているのです。

したがって、「無」だからといって空虚とは虚無ということでも本当はないのです。ただただ何ともいえないし、イメージすらできないものです。

「無」であっても、それはただ在るのです。あらゆる現象の根源ですから、私たちが想像しているような「無」とは違います。

それはイメージとは違うというレベルのものでもありません。言葉や思考とは何と虚しいものなのでしょうね。最近、つくづくそう思ってしまいます。

自分はどこにいるのだろう?って見て、ああやっぱりどこにもいないし、全体性として遍在しているという感覚さえも、真実ではないのでしょう。

私たちは、本当には知っていることを知らないと信じていて、知っていると信じていることは本当は何も知らないということにも気づいていません。

真実は無限に遠いし、限りなく近いとも言えますね。

自分の中にいる男の子の思い

指折り数えてみると、電車やバスなどの乗り物を使っての通勤というものをしなくなってから、16年経っていたことに気づきました。

それが昨年末にオフィスを引越ししてからは、毎日バスでの通勤の毎日がまた始まったのです。身体がそれに慣れていないということと、この寒さとで心の中で誰かがびっくりしているようです。

でも人間というのは不思議なもので、1、2ヶ月もたってくると徐々に慣れてくるのですね。寒いのは相変わらず好きにはなりませんが…。

それでも何とかして、クルマでの通勤を取り戻したいという思いで、プロに駐車場を探してもらっているのですが、なかなか見つかりません。

それと、高々片道5,6km くらいの往復ですから燃費のいい小さなクルマでも手に入れようとして、もっとも用途に都合のいいものをネットで物色中なのです。

ただ毎日の通勤の足になればいいだけなので、特別な思い入れなど必要もないし、当然安く手に入る中古車市場をサーチしています。

けれども、あれでもないこれでもないとやっているうちに、どうやら自分にはまだまだなんらかの拘りのようなものが厳然としてあるんだなと気づきました。

何でもいいなどとは全く思ってないということが明らかになりました。手ごろなものが見つかったと思っても、どうしても触手が動かないのです。

そんな通勤クルマにも遊び心というか、スタイリッシュさというか、目立ちたがり屋というか、そんなものを求める自分がいました。

というわけで、理屈ではなくて、ただコストパフォーマンスを求めるのでもなく、自分の中にいる楽しみたい男の子の気持ちを受け止めてあげたいと思うのです。

二つに分裂したインナーチャイルド

私のセッションでは、大抵の場合インナーチャイルドという言葉が登場します。もうすでにご存知の方が多いと思いますが、直訳すれば内なる子供ということです。

つまり、大人の心の中に残存している子供の頃の意識ということです。インナーチャイルドのいない人はいません。

どんな人であっても、インナーチャイルドが心の奥に潜んでいます。無邪気な子供の頃をあるがままにそのままにしておける人は、いないからです。

誰でも、大人になるにしたがって、無邪気な心だけでは生きていけないということを悟るからです。社会に順応して生きていくためには、無防備さだけでは危険なのです。

そこで、自己防衛のシステムが作られることになるのです。その自己防衛が強大であればあるほど、それだけ苦悩も大きくなるのです。

つまり、インナーチャイルドがいることが直接問題であるということではないのです。インナーチャイルドはざっくり言って二つの部分に分裂しています。

一つは、無邪気なままの無防備な子供の部分であり、もう片方がそんな自分を否定して、誰からも否定されない自分を創ろうと頑張る部分。

実は後者の部分こそが、自己防衛システムを強大にしていくことになるのです。どちらのインナーチャイルドにも等分の役割を果たさせることができると、バランスのとれた大人になることができます。

けれども、その後者のインナーチャイルドの上に自分を構築して行ってしまうと、自己防衛の強い人生へと突き進んでいくことになってしまうのです。

その場合にこそ、癒しが必要になるのです。セッションの最初では、こうした心のメカニズムについて、充分に理解していただくことが大切なのです。

自分の本質に気づくことが真の癒しとなる

セッションを受けると、その反応はクライアントさんによって様々になるのですが、これだ!と感じられると、短期間に何度もセッションに通いたくなるものです。

そして、少しでも早く癒しを進めて、これまでの不自由さや苦しみから解放されたいと願うのは当然のことですね。

けれども、癒しが進む速度というのは誰であれ、概ね決まっているのです。思ったようには進まないのです。

仮に自覚としてはどんどんよくなっていると思えたとしても、それほどの変化に深い部分はついていけないのが現実です。

そのことを理解して、焦らずじっくりと腰を据えて、癒していくことが大切なのです。それは、必ずしもセラピーに通うということではありません。

普段の生活こそが、癒しの最大の実践の場であるということを忘れないことです。そして、最終的に何よりも大切なことは、自分の本質に気づくことです。

癒しが進んでいくというのは、人生という物語の中でのことなのです。真の癒しは、物語の中にいる自分に気づいていることです。

つまり、物語の外に自分の本質があるということ。その気づきこそが、物語の中で自分を何とかしなければと躍起になっている自分への最大のプレゼントになるのです。

それは間接的に真の癒しをもたらしてくれます。自分を改善しなければという凝り固まった信念から開放してくれるのですから。