意外な副産物

頭の中の自動思考や自動演奏、自動鼻歌などを止めて、シーンとした気持ちのいい状態になりたいと思い立ってから、一ヶ月弱が経ちました。

こうした思いはもう遥か前からずっと持っていたのですが、きっと無理だろうと思って放置しておいたのです。

ただし、今回はちょっと本気モードになっているようで、自分でもこのやる気はどこからくるのだろうと驚いている面もあるのです。

成果の程はというと、相変わらず自動思考はやってくるし、自動演奏や自動鼻歌も波はあるにせよ、まだ全く止まってはいません。

その間、できる時にはずっと瞑想をしたり、呼吸法をしたりして、なるべくそのことを忘れないように心がけて生活してきました。

その効果なのかよく分からないのですが、あの感覚がやってきやすくなったのです。あの感覚というのは、どう言葉で説明すればいいものか。

シーンとした感じというよりも、頭の芯がジーンとした感じがして、全身の感覚が様変わりするのです。

身体を動かすとすぐに消えていってしまうものなので、じっとしていなければならないのですが、それが少しも苦にならないのです。

その状態がやってきている間は、確かに自動思考や自動鼻歌などは影を潜めてしまうことが多いのですが、それでもそれを喜ぶ自分もいないのです。

というよりも、思考だけでなく感情的なものも薄くなってしまうらしく、意識だけが全く変化なくあり続けているという状態です。

以前から知っている感覚ではあるのですが、これまではほんの少しだけやってきてすぐに消えていってしまう感覚でした。それが今は体験し放題になったわけです。

ハウスメーカーの設計士さんとの打ち合わせで思考をフル回転させた後、どうなるのか心配だったのですが、帰宅して一人になったらすぐにその状態に戻れたのです。

まだ目的は全然達成できていないのですが、意外な副産物がやってきてくれたのはありがたいことですね。

腹式呼吸を見直そう!

osho は、「瞑想は冒険だ、人間のマインドが企てることができる最も偉大な冒険だ」というように言っています。

確かに自分でも不思議だなと思うことがあるのです。それは、瞑想をしようと企てる自分とは自我であり、自我は思考の中に組み込まれているものだと思うからです。

思考の申し子である自我が、なぜその思考を止める瞑想に強く惹かれるのかが分からないのです。敢えて言えば自殺行為のようなものではないかと。

ただ自我も馬鹿ではありません。自分の生き方をこれまで貫いてきた結果、どうやっても先行きが芳しくないと気づいたなら、自分の力の届かないところに目が行くものです。

力んで頑張ってきた生き方を見直して、真逆の生き方、つまりはリラックスを心がけて戦わない生き方へとチェンジした方が賢いのかもと気づくわけです。

考えて考えて、最善の道を選ぶという左脳優先の生き方ばかりに、あまりにも強く傾いてしまったことに待ったをかけるのです。

そして少しでも、思考や言葉のない直感の世界で生きている右脳の生き方の方へと、舵を切ろうとするための一つの方法が瞑想ということなのですね。

昨日のブログにも書きましたが、私の最近のブームは、瞑想よりも腹式呼吸の方に重きが置かれています。

それは、運転中であれ歩行中であれ、勿論自宅で腰掛けて静かにしている時であれ、いつでもどこでもできて、その効果をすごく感じることができるからです。

はては眠る時にも、腹式呼吸をするようになって、睡眠の質も少し向上したように感じています。また瞑想をする前の導入としても、腹式呼吸は効果的に使えると思います。

瞑想よりも地味ですが、もう一度腹式呼吸のことを見直してみませんか。

いまさら腹式呼吸?

私は全体性という言葉を使って、自分の本質の感覚を表現することがあります。このブログでもお馴染みになっていると思います。

セッションでも、全体性というのを感じたいのですが、どうやったらいいのでしょうか?とクライアントさんから質問されることもあるのです。

こんな時、残念ながら私自身もこうしたらいいという的確なアドバイスができなくて、歯がゆい気持ちになっていました。

できることといえば、なるべく毎日瞑想をすることで、いつか必ずその感覚がやってくるはずだからと言うしかないのです。

そんな中、今日ふと気づいたことがあるのです。それは、腹式呼吸を繰り返し実践していたときに発見したのです。

腹式呼吸とは、吸う時にお腹を膨らませるのですが、その時に意識も一緒にお腹を下に向かって下がっていくようにするのです。

その時、お腹の下辺りから空間が広がっているイメージを作るのです。それもできたら突如として宇宙空間に繋がっているくらいの広大なイメージです。

すると、降りていった自分のイメージが瞬間的に砂粒よりも小さい、言ってみれば無になってしまったような気がするのです。

なぜなら、周囲にある無限に広大な宇宙と比較するからです。その瞬間に、その対比の鮮やかさと相まってあの全体性がいつもよりも鮮明にやってきたのです。

そういうことかと。何となく分かっていたことが明確になったのです。全体性の感覚とは、同時に自分が無である感覚なんだなと。

こんな解説よりも、先ほどの腹式呼吸を自分なりに工夫して試してもらうと、もしかしたらただ瞑想しているよりも、うまくいくかもしれません。ぜひ実践してみてください。

思考は全部が自動思考

またまた昨日のブログの続きなのですが、昨日認識できる自動思考を止めることができたとしても、意識には上がってこないところでずっと思考は活動し続けているのではないかと書きました。

これって、よく考えてみたら当たり前のことではないかと気づいたのです。というのも、そもそも私たちは思考に対して間違った感覚を持っているのです。

それは、自分が考えているという感覚です。自分が運転している、自分が驚いてる、自分が食べている等々。これ全部、同一化が招いた錯覚なのです。

思考は左脳が起こしている活動なのです。それを「自分が」という主語をくっつけることで、横取りして自分が考えているような気になっているということです。

つまり、思考は全てが「自動」思考だったということです。自分が関与していない活動なのですから、自動というわけです。

それなのに、自分が考えようとしていないのにやってくる思考があるから、それを自動思考として特別なものと捉えてしまったわけです。

では、自分が認識できないところで動いている思考を止めるにはどうしたらいいのか?これは止めることもできないし、止める必要もないのです。

逆に止まってしまったら、廃人のようになってしまうかもしれません。頭の中をシーンとさせたいというのは単なる比喩です。

隣の住人が非常識に大きな音を立てて迷惑であるなら、それは直接なんらかの方法でやめさせる必要がありますが、それが自動思考を止めるということ。

一方隣の住人の一般的な生活音が気になるなら、それを止めることは不可能なので、自分が距離を取るしかないのです。

つまり、意識に上がってこないような思考の活動が気になるのなら、そこから距離を取るようにすればいいということです。

分かってきました。勝手にやってくるうるさい自動思考については、自分が意識的であることでそれに飲み込まれないようにできるし、それを止めることもできます。

さらに意識的であることで思考との同一化に気づいていること。その上で、なんらかの方法で思考から距離を取ることができれば、シーンは自ずとやってくるのかなと。

まだまだ先は長そうです。

意識に上がってこない思考

昨日のブログで、デフォルト・モード・ネットワーク、つまり自動思考について書きました。クルマのアイドリング機能と同じようなものです。

それからまだ1日しか経っていないのに、もしかしたら単純なアイドリングのようなものではないのかもしれないという考えがやってきました。

おさらいすると、アイドリングというのは低回転でエンジンをかけておいて、いつでも発車できるようにするための仕組みです。

デフォルト・モード・ネットワークも、自我がいつでも思考できるように前もって準備してある思考群という見方もできなくはありません。

けれどもよく考えてみれば明らかですが、クルマのエンジンは、すぐにはクルマに乗らない時には切っておくことができますよね。

ところが、今は思考はいらないと自我が思っているのにも関わらず、勝手に自動思考がやってくるのですから、主従逆転しているわけです。

それと、しばらく自動思考を停止させておくことができたとしても、何というか表に出てこないところで、たくさんの思考が蠢いているような感じがするのです。

だから自動思考がやってこないのに、なんだかシーンとはしてくれないのです。要するに、意識に上がってこないだけで、裏側では常に多数の思考が働いているのかもしれないと。

なんという嫌なことに気づいてしまったんでしょう。これが本当なら、それを停止させるための方法が見つかりません。

もしかしたら左脳の中で思考が止まるということはないのかもしれませんね。それが表に上がってくるかどうかの違いがあるだけで。

ある程度自動思考を止めていられるようになったからこそ、こうした思考の裏事情に勘づいてしまったとも言えますね。

デフォルト・モード・ネットワークのうちの意識に上がってこないものも含めて、それらを鎮める方法が見つかったら、きっとシーンとした本当の平安がやってくるように思いますね。

デフォルト・モード・ネットワーク

クルマのアイドリングって知っていますか?エンジンはかかっているのに、停車している状態のことを指します。

街中でよく見かける光景ですが、赤信号などで停車している時にも、ずっと低回転でエンジンが回っているあの状態のことですね。

クルマに乗り込むときに、最初にエンジンをかけた状態とも言えます。最近では、アイドリングストップ機能のあるクルマも見ます。

走行するクルマを停止させると、同時にエンジンも停止するため、ガソリンの無駄遣いや排気ガスを減少させる効果などがあるわけです。

ただし、発進しようとしてブレーキから足をはずした瞬間にセルモーターが回ってエンジンがかかり、すぐに走り出すことができるようになっています。

この場合も、短い時間ですがアイドリング状態にはなっているのです。一方で、こうしたアイドリング状態が全くないクルマがあるのをご存知ですか?それはもちろん電気自動車です。

エンジンの代わりにモーターで走るので、電車と同じようにモーターに通電するだけで、すぐにクルマを発進させることができるわけです。

だからこそ電気自動車は、停車中はシーンとしていて気持ちがいいのです。私が電気自動車を選んだ理由のうちの一つは、このアイドリングがないというのもあります。

今日お伝えしたいことは、実はここからです。私たちの脳にも、このアイドリングのような機能があって、それをデフォルト・モード・ネットワークと呼ぶらしいです。

私が最近目の敵にしている、例の自動思考のことです。自動思考であれ、自動演奏(鼻歌)であれ、主人の意思とは無関係に勝手に動き回る思考です。

これが肥大してしまうと、いつも頭がグルグル回転していて、落ち着かない不安なマインドになってしまうのです。

私はとにかく頭の中をシーンとさせておきたいのです。そう、まるで電気自動車のようにです。これができれば、思考が少ない、右脳が優先される生き方が実現できそうですね。

没入感が怖い

以前から気がついていたことではあるのですが…。瞑想中に少しずつ深い感覚になっていくのですが、それを没入感と呼んでもいいかもしれません。

その感覚が強くなってくると、マインドの中にそれを怖がる何者かがいるのに気づきます。そして、緊張してくるのが分かるのです。

きっと思考が緩んでくるにつれて、思考の中に棲んでいる左脳の中の誰かが自分を保っていられない感じがしてくるのでしょうか。

それを怖れて、あれこれ邪魔をしてくるのです。もっと深くと願っている自分と、もうやめてくれという自分のせめぎ合いが起こるのです。

そして結局は、ブレーキの方が勝つので、それ以上先には進めないわけです。最近、瞑想よりも腹式呼吸の方が素早く没入感がやってくることを知りました。

早ければ、ほんの数十秒、あるいは2、3回の呼吸でもあの感覚はやってくることもあります。そうすると、それを怖れている誰かが慌てるのです。

そして、どうなってしまうんだろうという感覚でプチパニックになるのです。生唾をゴクンと飲むのが分かります。

どうなろうと大丈夫だからと伝えても、ほとんど効果はないようです。何度も繰り返し経験させてあげて、死なないということを気づかせてあげるしかないのかなと。

上の行を書いてから、少しだけ没入させながらこれを書いているのですが、そうすると自分の顔が仏頂面になっていることに気づきます。

普段は、きっと何らかの仮面を被っているので、それが取れた状態になるということなのかもしれません。仏頂面のおじさんを人前に出すわけにはいかないので、こうしたワークはやはり一人の時にするものですね。 

安上がりな老人

朝いつもの道路を走って、スポーツクラブへ向かう途中、運転しながらも腹式呼吸を続けていると、手や顔やそのほかの感覚が変化してきます。

おお、いい調子と思っていると、普段はほとんどないような邪魔が入って、道路の真ん中で立ち往生させられて、ようやく解放されたと思ったら、感覚が普通の状態に戻ってしまっていました。

最近はこんなことの繰り返しが続いているようです。単なる気のせいなのか、あるいは偶然でしかないのか、本当のところはよく分からないのですが…。

気を取り直して、サウナの中では完全に瞑想状態になっていると、やはりそれを邪魔する事態が起きてくるのです。

邪魔が入れば、今やっていることが間違ってないということの証明にはなるので、それはありがたいことなのです。

けれども、自分の中に一体どんな奴がいるのかが少し恐ろしくなってきます。こちらが攻めた分だけ、相手の反撃も大きくなります。

自分は一人で何をやっているのだろうと。昨夜のこと、いつものように目が覚めたのですが、感覚が違うのです。

目覚めた瞬間、カッと目を見開いて真っ暗な中を見つめたままでいるのです。変なことになっているなと思っていると、しばらくして暗闇に目が慣れて部屋の景色が見えてきました。

後で冷静になってそのことを思い返した時に、普段夜中に目が覚めて真っ暗だったことなどないのです。寝ている間には、瞳孔が開いているはずだからですね。

でも昨夜は目が開いた時には、本当に真っ暗で何も見えませんでした。目を見開いたまま、何も見えないという経験をさせられたのですね。

怖くはないのですが、これを覚えておきなさい!と誰かに言われた気がするのです。希望的観測ですが、今未来の自分の姿が少し見えたような気がします。

それによると、お酒も飲んでない全くのシラフの状態なのに、ちょっと酔っ払っているような感覚で毎日生きている、そんな老人のイメージが見えました。水だけあればいいなら、とても安上がりですね。

成し遂げるよりただ気づくこと

なぜこれほどまでに左脳が肥大化してしまったのかということを考える時、それを個人の問題として捉えるようなものは一つもないということです。

全ては人類全体の問題だということ。人類全体がより複雑な社会を構築するようにと進んできたことが原因なのです。

それが間違いだったとか誤りだったということではなくて、そのように変革してきただけなのです。ただこうしたことに気づくことは大切なことだと思いますね。

右脳は私たちが全体の一部だということを知っている一方で、左脳は個人ということをより激しく強調するようになってしまったのです。

そのバランスが崩れてしまい、全体と繋がっている感覚を忘れてしまったのです。それに加えて、左脳は常に理想の自分と現実の自分を比較しています。

その違いを少しでも無くそうとすることが、生きる上での原動力となっているのです。それが私たちの不満や欠乏感の原因なのです。

右脳にはそうした比較がそもそもないので、常に満たされた状態でいることができるのです。誰もが幸せを求めて頑張っているのですが、少し考え直した方が良さそうです。

つまり、私たちが望む人生は自分自身の中にもうすでにあるということ。それは何かを成し遂げるということではなく、元々あることに気づくこと。

ただそうしたことに気づいたからといって、すぐに生き方を変えることは難しいのです。それでも諦めずに、少しずつカメのように鈍くても着実に変化させていきたいものですね。

左脳のコントロールから解放される

クライアントさんとのセッションや、このブログを通してずっとお伝えし続けてきたことを総括すると、それは右脳優位の生き方と言えるのです。

それが分かってしまったので、何だそんなことだったのかとちょっとした驚きを持って受け止めているのです。

これまで左脳は思考、論理、言葉、右脳は感情、感覚、直感、みたいな括りで分けていたので、こんな大切なことに気づけなかったのです。

例えば、私が全体性という感覚について何か言った時には、それこそが右脳が生きて感じている世界そのものだということ。

あるいは、より自然に、より自由に、より無防備に生きると言ったなら、それも右脳側の生き方であるということ。

私たちが生きている内的世界には時間はないという時、それも右脳の世界のことを言っていたのです。右脳には時間という概念がそもそもありません。

右脳は今この瞬間だけを生きているのです。一方の左脳は時間の流れの中にいるという感覚を持っています。

だからこそ、過去を悔やみ、未来を不安に思うのです。そしてその不安から解放されたくて、ありとあらゆる自己防衛を編み出すのです。

それが苦しみの原因なのです。右脳にはそうした苦しみはありません。そもそも、右脳には自我がないのですから。

私たちがどれほどのレベルで左脳から右脳中心となる生活に変革したとしても、左脳の能力がなくなるわけではないので、そこを心配する必要はないのです。

左脳にコントロールされるのではなく、左脳の能力を必要に合わせて使うというイメージです。会話も文章も社会での生活も、全ては左脳にお願いするのです。

その一方で、思い切り右脳中心の人生へとシフトできるようにすべきなのです。そのための第一歩は、左脳から距離を取ることですね。

あなたの頭の中から聞こえてくるアレコレの声から離れて、シーンとした瞬間瞬間にいられるようにできたらいいと思います。