とんでもない充電ケーブル

どういうわけか、爪の伸び方が早くない?と思っていて、爪を切ってヤスリで削るのが面倒過ぎるなあと。

どうにかならないかなと思っていたら、電動爪切りなるものが世の中にはあるのですね。しかも、それほど高価ではない。

ネットで調べて即購入しました。とりあえず、数千円のお安いものです。それでも、あっという間に爪を削ってくれて、ヤスリがけもできるのです。

乾電池で動作するものもあったのですが、充電式があったので私はそれを選びました。スマホなどを充電するときに使うものと同じ。

そのときにたまたま見た動画で知ったのですが、充電ケーブルの末端に、特殊な電子機器が仕込まれていているものがあると。

それと知らずに使ってしまうと、接続したパソコンやスマホを外部からコントロールされてしまうことになると。

怖いですね。きっと某中国が作りそうなものだなと。私は電動爪切りなので問題はないですが、それでも使うのを辞めました。

調べたら、やはりその電動爪切り自体も中国製だったので。安物買いの銭失いとはこのことですね。皆さんも気をつけてくださいね。

自分の中の変わらないコアな部分

生物というのは、時間と共に成長していくものですね。植物であれ動物であれ。私たち人間もその点に関しては同じです。

自分の過去の記憶を振り返ってみたときに、確かにあの頃は幼かったなあとか、自分はいつから大人になったのだろうと思うことがあります。

ところが、そんな成長とは違って、まったく変化していない部分があるなと感じることもできるのです。

つまり、成長する部分と変わらぬ部分があると思って間違いありません。そしてその変わらぬ部分とはなんでしょう?

子供の頃、アルバムの中の一枚の写真を見て思い出したのですが、それは1歳かせいぜい2歳くらいの自分が、父親に持ち上げられてぶどう狩りをしているのです。

ああこの時のこと、凄くよく覚えていると。それ以来、そのシーンのことを忘れたことはありません。

そして、そのぶどうに手を伸ばしている時の感覚、あるいはその瞬間を生きている自分の感じが、今と違いがないということ。

つまり、そのコアとなる部分は成長も変化もすることなく、ずっと同じままを保っていると分かるのです。

それは自我のように生後作られた部分ではないのだろうなと。だから変わりようがないのだろうと思うのですね。

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ザイム真理教というカルト集団

最近ネットなどで見つけたのですが、「財務省解体のデモ」というのが東京や大阪などの何ヶ所かで起きているらしいですね。

以前から財務省が私たちの生活を困窮させる悪の権化だと思っていたので、ようやくそれを訴える人々の声が表舞台に出てきたということかなと。

経済のことってすごく難しいのと、さまざまな人々が真反対の論理を展開してくるので、私自身何を信じたらいいのか分からなかったのです。

けれども、さすがにネットの情報をあれこれ参考にしている間に、なるほど政治家をどれほど変えたところで日本が良くならないのは、ずっと変化せずにある「官」のせいだと気づいたのです。

その頂点に君臨するのが、財務省というわけです。彼らは、増税すれば出世コースに乗れるので、そのためのあらゆる手段をこうじるのです。

そしてプライマリーバランスを正常にするということを第一義に掲げているのです。国が負っている赤字をチャラにするのだと。

けれども、本当は「国の借金」というのは、「政府の負債」なのですね。それは国民の借金ではないということ。

この辺りの説明は私がここで説明するよりは、興味がある人は専門家から正しい情報をゲットする方がいいですね。

ある人が、「ザイム真理教」という本を出していて、まだ読んでいないのですが、財務省というカルト集団だと断罪しているらしいです。言い得て妙ですね。

今後、世界中で不正が暴かれていくことになるのかなと思うと、一筋の光明がさしてくる気がします。

非二元が徐々に定着してきた

この世界には実体がないということを視覚イメージで見てしまってから、もう半年くらいが経ちました。

当初は、気づいたとはいえあまりにも突拍子もないことだったので、今までの自分がそれを受け入れていたかどうかは怪しいのです。

実体がないということに気づいてしまったけれど、だからと言ってあらゆるものがないというのはどうやっても受け入れ難い。

これが本当の反応だったのだろうなと。ところが、動画やブログで非二元にまつわることを話したり書いたりしているうちに、少しずつそれが定着しつつあるかなと。

リアルと非リアルとがより明確になってきたのと、そのことを忘れずにいられることが増えてきたように感じます。

たとえば、クルマを運転していたり街を歩いているときに、空間とか距離といったものがイメージでしかないとか。

何も分からないし、何も知らないということに気づいていたり、そしてそれが当然だなというのも忘れずにいられるようになってきました。

時間と共に自分の中で熟成されて定着していくなどということ自体、それが真っ当なことなのかどうかも分からないのですが。

もう、非二元を辞めた!とか、そういうことは生きている限りあり得ないのだろうなと。それはそれでいいのかなと。

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人格って何だろう?

自分の夫を社会的に抹殺していく、という恐ろしいドラマを観たのですが、誰が奥さんを誘導しているかというと、驚くことに夫自身だったのです。

夫の人格が二つに分裂していて、自分で自分の人生を破壊しようとするのです。激しい罪悪感によって。

解離性同一性障害という病ですが、いわゆる多重人格ですね。その夫は父親から激しい暴力を受けた結果、自分の心を守るために別の人格を作ったのです。

このようなケースはごく稀にしかないだろうと思われているかもしれませんが、実は意外と多いのかもしれません。

かなり以前にずっとセッションに来てくれていた中学生の男の子は、何人もの人格を持っていると話してくれました。

それらの人格が、主人格となって表へ出てくるかどうかは別として、みんなで話し合ったりすると言ってたのを覚えています。

あるいは、初めて予約してきたクライアントさんが、当日現れないので電話をしたところ、身に覚えがないらしいのです。

けれども、いただいたメールアドレスはその人のものだったし、忘れるようなことではないはずなのに。

また別のクライアントさんの場合、知らない間に包丁が増えていて怖いというようなことを言っていたこともありました。

本人の自覚がない場合を含めたら、かなりの割合でそうした症状をもっている人がいるのかも知れないですね。

自分という人格とは、一体なんなのだろうと考えさせられるのです。

非二元に気づくために、思考を止める必要はない

最近は瞑想をすることがなくなってしまったのですが、それでも瞑想している時のあの気持ちの良さを忘れてはいません。

私はあの気持ちよさを、「自前ドラッグ」と呼んでいます。ただ何もせずに、心静かにいるだけなのにどうして気持ちがいいのか?

それはきっと、自我から解放されるからなんだろうなと。自我の喜びというのは、どちらかというと快感のようなものだろうと。

快を求めて不快から遠ざかろうとするのが自我の生き方です。けれども、そのどちらでもない状態に置かれるのが瞑想です。

快不快という日常的な自我の世界から離れて、理由も何もないただここに在るという感覚になると、それだけで心地いいんだろうなと。

もちろん自我はそれをずっと続けられると困ってしまうので、長い間それを保つことはできません。

それはそれでいいのですが、こうしたカラクリに気づくだけで、もうすでに非二元に近づいていると思っていいと思います。

自我がいなくならなければ、非二元に気づけないのではなく、自我がいても自分に正直になってイメージをそれと認識すればいいだけ。

それだけで、非二元には気づけるはずなのです。瞑想をする必要もないし、思考を止める必要もないということですね。

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やっぱり世界はない

「非二元の世界」では…、のような表現を使ってしまうことがあるのですが、実は非二元には世界というものがありません。

私たちは、この二元の世界で生きているのでまず大前提としてこの世界があって、そこで様々な物語が進行していると考えているのです。

自分という存在も、世界という大きな舞台の中で生存している一つの存在であるという認識があるわけです。

けれども、非二元というのはこの世界というものがないのです。なぜなら、この世界というのはイメージだからです。

え、そんなことはない。この世界は妄想なんかではなくて、実際に存在するものだろうと。ところがです。

それこそがイメージなんですね。リアルではないのです。ここを見抜くことができるかどうかですね。

そして、この世界、この宇宙には原因と結果があって、つまりは必ずなんらかの始まりがあって、今があるという考えがあるのです。

物理学的には、ビッグバンによってこの宇宙が始まったとするわけですが、こうしたことが全てイメージなんですね。

原因があってその結果が起きるというのは、二元の世界の法則なんです。非二元では、どんな因果もなければ何があろうと、そこにはどんな説明もできないのです。

繰り返すにもほどがある

「二度あることは三度ある」という言葉があるように、似たようなことをどういうわけか繰り返すという経験は誰にでもあるはず。

それが、自分にとって都合のいいことであれば良いのですが、きっとこのことわざを作った人はあまり嬉しくないことが重なって起きた経験をしたのではないかと。

「泣きっ面に蜂」程度だとまだいいのですが、もう何度もこれでもかという具合に、嫌なことが立て続けに起きることがあります。

そんな時、それを周りの誰かのせいにしたくなるかもしれません。なぜなら、自分には思い当たることがないからです。

というよりも、明確に誰々がこんなことをしでかしたとか、何かをされてしまった等々。それがはっきりしてしまっている場合だってありますね。

そんな時、この世界には自分しかいない、というのを思い出してみると、ああ自分中心のこの世界だったなあと。

そうなると、誰かのせいにはできなくなってしまうのですね。何せ、他人として見えている存在は、自分の人生物語の中の配役でしかないからです。

さて、そうなったときにこの理不尽極まりない嫌なことのオンパレードとどう向き合ったらいいのか?

一つには、しばらく待てば必ずそこから抜け出すことになることは分かっているので、心静かにそれを待つ。

もしくは、自分の心の反応をつぶさに見て、それがバカバカしく感じられるようになればいいんだなと理解すること。

そんな大人の対応ができればいいなと何歳になっても思うものですね。

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何もすることのない毎日は楽?それとも苦痛?

近頃事務所にいる間に、その日のブログを書いてしまうということが増えてきました。その理由は、時間があるということもありますが、それをやっておくと帰宅してから全くの用なし人間になれるからです。

会社員として、めちゃくちゃ忙しく働いていた頃には、何も用がないという人生になるのは、いったいいつのことだろうと考えていたことがありました。

つまり、何もすべきことのない人生に非常に憧れていたのです。それが叶ったらどんなにいいだろうと思っていたものです。

それが、本当に現実のものになってしまった感じがあって、願いはいつか叶うものなんだなと心の中で驚いているのです。

帰宅してからやることと言ったら、食事以外では風呂に入って寝る準備をすることだけ。それ以外のどんな労働もありません。

最近では瞑想をするということもなくなり、これでもかというくらいの淡々とした日々を送るようになってしまいました。

用がないというのは、慣れるまでは自我にとっては結構不安な感じもしたりするのですが、それも慣れてしまえばなんでもなくなるのです。

何もすることがない、その瞬間を持て余したり、ただ生きているという感覚に浸ったり、そんな日々が続いています。

全く意味もなく、なんの価値もない、そんな人生を満喫するのもオツなものかもしれませんね。

非二元の世界を想像しないこと

赤ちゃんとして生まれて、数年するうちに自我が芽生えてきて、そこからは「私」とか「自分」という自覚の中で生きるようになるのです。

忘我の境地というのもたまにはあるかもしれませんが、一般的にはずっと自覚を持ったまま人生を生きるわけです。

この自覚というのを違う言葉で言えば、主観ということになると思うのです。私たちはこの「主観」だけを頼りに生きているのです。

けれども、それを忘れがちになっているのです。自分の主観とは別の事実というものがあると信じているのです。

ただ実際には、そう信じていることも主観の中でのことなのですね。自分の存在とは関わりなく、真実というのは存在するというのだって、そういう主観でしかありません。

このように考えてみると、やはり主観が100%なのです。ところが、非二元の世界というのは、この主観がない世界なのですね。

だから、どうしたって受け入れ難いし、想像することさえできないのは当然のことなのですね。結論として、非二元を想像するのをやめることです。

イメージすればそれだけ、非二元から遠ざかってしまうし、それは自我を強化してしまうことにもなるのですね。

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