子供の自分と大人の自分

心の癒しというのは、ただ漫然と自分の傷ついた心を癒すということだけでなく、二つのことを明確にしておく必要があるのです。

それは、インナーチャイルドを癒していくということと、大人の自分を育てるということ。そしてこの二つは同時に進行していくのです。

なぜなら、人は誰でもインナーチャイルドと大人とが混ぜ合わさって人生を生きているからです。まずそのことに気づくことですね。

大人の自分だけで生きていると思っている人は、インナーチャイルドの存在に気づかなければなりません。

インナーチャイルドに意識を向けて、その存在を受け止めることを通して大人の自分が成長することができるのです。

なぜなら、インナーチャイルドを見るためにはそれとの距離が必要であり、子供の自分とは異なる大人の自分の存在が明確になるからです。

それと同時に、大人の自分にケアされることを継続されたインナーチャイルドは、不満な気持ちから満たされた安心感を得られるようになるのです。

そうやって、双方が程よい距離感を持ったまま、同時に癒しと成長を現実のものにしていくことができるわけですね。

仮想現実と非二元の違い

最も原始的な仮想現実というと、写真(画像)ということになるのかなと。そこに動きが加わると、テレビや映画(動画)になるわけです。

そして、最近ではほとんど実写と区別がつかないくらいのゲームもあるし、AIが作った画像や動画も出始めています。

よりダイレクトに没入感を感じられるように、ゴーグルを着用してみたり、さらに言えば視覚や聴覚だけでなく、触覚、味覚、嗅覚も感じられるようになってきました。

こうした進化の先には、もうこの現実を体験しているのと違いが分からないような仮想現実を体験できる日も近いのではないかと。

けれども、こうした仮想現実の世界では、どこまで進化したところでそれを体験する主体というものがあります。

それが自分ですね。自分だけはどこまで行ったところで、消えるわけにはいかないのです。そしてそれこそが、非二元との違いなのかなと。

非二元は、体験する主体とその対象のどちらもがないのです。そして体験だけが残るのです。ここが分かりにくいところなのでしょうね。

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物語として人生を達観する

自分は比較的気分屋な方だなと若い頃からずっと思ってきました。どこまで表に出せるかどうかは別として。

そしてその傾向は未だに続いているのですが、それでもほんの少しずつではあっても改善しつつあるような気もします。

以前だったら、この状態ではもっと気分を害していたはずだけど、それほど気にしなくなったなということが増えてきたかなと。

そして、それに比例して外へ出すのも少なくなってきた感じがします。これは、単に年齢を重ねてきたからなのか、それとも別の要因があるのか。

それは定かではありませんが、もしかしたら人生の物語性を忘れずにいられるようになってきたからかもしれないと。

そう、物語というのはあくまでも作り物という意味です。だから、リアルなものではないということ。

瞬間瞬間ごとにそのことを忘れずにいられたら理想的ですが、そうもいかないのが人間です。それでも、事柄のすぐ後に気づけるようになればいいなと。

非二元のようにすべてが幻想というところまで行かずとも、物語として人生を達観することができれば、深い深刻さや落ち込みに至る前に正気に戻ることもできるのだろうなと思います。

シンプルな人生を心がける

セラピストの仕事を始めてからずっと言い続けていることがあるのですが、それはシンプルに生きるということです。

具体的には、「言いたいことを言う、言いたくないことは言わない。」「行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。」

「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。」「一緒にいたい人といて、一緒にいたくない人とはいない。」

「会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。」これが、私が言うところのシンプルな人生なのです。

まさか、そんな都合のいいように生きていけるはずがないじゃないか、という声が聞こえそうですが、それが可能なのです。

ただし、それなりの痛みは伴いますよ。つまり、私たちは自己犠牲と一過性の安心を天秤にかけているのです。

自己犠牲と安心をトレードしつつ生活をしているということです。だから、本当はシンプルな人生を複雑怪奇にしてしまうのです。

様々な体験をするためには、人生が複雑な方が好都合ということもあるのかもしれませんが、私はもういらないなと。

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お金が無くなる前に肉体を脱ぎ捨てる時が来そう

昨年の12月に年齢が大台に乗ったこともあって、だいぶ先が見えてきたなあと思うことが増えてきたんですね。

だからなのか、おすすめの動画に死後の世界や輪廻に関するものがちらほら挙がってくるようになったのです。

あまりに非二元だけではつまらないので、そういうことは脇に置いた上で、どれどれと観てみたらなかなか興味深い内容のものがいくつかありました。

あくまでも物語という前提ではあるのですが、魂ありきで考えていくとこの世界が体験をするためにしつらえた幻想だと分かるのです。

体験することと、それによる魂の学び(ここはあまり興味のないところではあるのですが)が目的なんだとか。

そう考えてみると、この世界が自らの魂の計画通りの設定になっているんだろうなと。そしてそれも残り少なくなってきているなと。

きっと魂がもうこれ以上の学びがないと分かった時点で、肉体人格が終わりを告げることになるのだろうと。

そうしたら、幻想とはいえ重苦しかった肉体を脱ぎ捨てて、いわゆる幽体としての魂に戻って、遊び放題が待っているのかなと。

そんな感じでいいように捉えるようにしたいなと思っています。こうした作り話と非二元が結びつくと、これ不思議と違和感があまりないのですね。

膿を出すチャンス到来

人間以外の動物はみんな嘘をつくことができないということを以前ブログで書いたことがあります。

そして人間はいい嘘も悪い嘘も含めて、間違いなく嘘をつく動物なのですね。そして一度悪い嘘をついてしまうと、それを誤魔化すためにさらに嘘をつくことになるのです。

それは自分を守るための嘘を突き通すことで、結果としてそうなってしまうということなのですが、そうした嘘の重ね塗りはいずれバレる運命にあるのです。

最近のフジテレビの様子を見ていると、絵に描いたように嘘が次から次へと塗り重ねられて、もう収拾がつかない状況まで来てしまっているかなと。

そして、ここからが今日の本題なのですが、膿を出す時期がやってきているのはフジテレビだけではないのかもしれないと感じます。

メディアにしても、芸能界にしても、そして政治の世界にしても、これまでの膿を出していくことになるのではないかと。

いろいろな意味で痛みを伴う時代なのかもしれませんが、清々しい人生を生きるためには通る道なのだろうなと思うのですね。

個人個人が抱えている膿を出していくのが心の癒しと表現してもいいとするなら、今年は誰にとっても癒しを前へ進めるチャンスなのではないかなと。

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「信じる/信じない」を脇に置いてみる

非二元的な目で周囲を見回していると、自分が何を信じていたのか、そして何を信じていなかったのかを洗い出せるのです。

信じることと信じないことは同じです。なぜなら、神なんていないと信じることと、神がいるなんて信じないというのは同じだからです。

で、どちらであろうと自分が信じたり信じなかったりしていることは、非二元の世界には入っていくには邪魔になるのです。

つまり、様々なことをたくさん信じていると、非二元が難解に感じてしまうのではないかと思うのです。

逆にいえば、信じる信じないから遠ざかる、あるいはそれをやめてしまうことができたなら、非二元は馴染み深い感じがしてくるかもしれません。

これは非二元に限ったことではないはずです。信じるか信じないかという世界観は、考え方を狭める働きがあると思うのです。

これは知識とも関連しています。「知っている」と信じているのですから。やっぱり、何も知らない無邪気な赤ちゃんのようになれたら簡単かもしれないですね。

赤ちゃんは何かを信じてるなんてないだろうし、何かを信じていないということもないはずですからね。

体験するためのデータはダウンロードされる

非二元って、物語性が全くないのですね。そりゃあそうですよね、時間も空間もなくて誰もいないのですから。

どう考えたって物語が現れる余地が何もない訳です。意識もないし、魂もないし、もうシンプル過ぎて、潔過ぎるなと。

とはいえ、毎日の人生物語は続いていくわけで、そこにいると非二元は非二元として、死後の世界は?とか、輪廻は?などの疑問は依然として物語の中ではあり続けているのです。

そんな中、たまたま観た動画で、人間は死ぬとどうなるのか?ということや、どのようにして生まれ変わるのか?といった内容を詳細に説明されていたのです。

へえそんなもんなの?と物語とは言え、興味深く観ていたのですが、その中で「おやっ?」って言うことがあったのです。

それは、この現実は全て幻想だということ。物質というのはないということを言っていたのです。あれ、ここは非二元と同じだなと。

しかも、瞬間瞬間の経験を実現するためのデータがダウンロードされるとのこと。おお、なんか分かる気がする。

物語の中とはいえ、この感覚はどこかで感じていたと思うんですよね。とてもしっくりくる感じがして面白かったですね。

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人生物語は続く

幼い頃に、たった一度だけ親にせがんで絵本を買ってもらったことがありました。それは「一寸法師」の絵本です。

小さくてか弱い主人公が勇敢にも悪を倒して、最後には打ち出の小槌で大きくなってお姫様と結ばれるという物語ですね。

小さな一寸法師に幼い自分を投影していたんだと思います。そんな物語ほど刺激的ではないにせよ、私たちは誰もが自分の人生物語を日々経験しています。

そしてその人生物語をリアルだと信じています。けれども、リアルなのは経験だけで、人生というのはあくまでも作り物の物語なのです。

物語は、過去から未来へと流れていく時間の中であらゆる原因と結果の繰り返しを継続していくわけです。

けれども、それがどれほどリアルに感じたとしても、妄想の類でしかないということです。イメージであり、作り物なのです。

果てしなく続く時空間の中にあらゆるモノが存在して、その中に自分や他人やその他の生物や鉱物があるのだと。

いい人もいれば悪い人もいて、自分という個人はその中でもみくしゃにされなが悲喜交々の毎日を送っていると思っています。

でも冷静になって外側を見回してみると、外側も内側もイメージに過ぎないと分かります。その結果全ての知識もイメージだったんだなと。

とはいえ、これまで続いてきた物語がここで終わることなく、また淡々と続いていくように見えるのですから不思議ですね。

何を体験してもいつかは普通になってしまう

会社員生活をしているときに、この仕事から解放されて自由に好きなことを仕事にして生きていけたらどんなにいいだろうと思っていました。

ある日それが、本当に実現してしまったのです。今の仕事をし始めた時には、まだ日々の生活スタイルに慣れなくて、やった〜!という感じにはなれていませんでした。

けれども、しばらくして仕事が安定してきた時に、ああこれで生きていけるなと分かった時に、深々としたありがたいという気持ちが湧いてきたのです。

そして、会社員生活と今の生活とを比べた時の驚きと感謝は忘れることができません。今もその気持ちがなくなりはしていないのです。

ただし、過去を思い出すことが少ないということもあって、これがもう普通の生活として定着してしまったので、殊更なんとも思わなくなったのです。

どれほど素晴らしいことであれ、それが時間と共にごく当たり前のことのように感じるようになるということですね。

ある動画を観ていたら、人が死ぬと一般的には源へと戻っていくのだと。それはそれは筆舌に尽くし難い快感、心地よさなのだそうで。

じゃあもうそこに永遠にいればいいじゃないと思うのですが、それもやはりしばらくするうちに、また肉体を持って生まれ変わりたいと思うようになるらしいのです。

誰も誰かに強制されてこの世にやってくるわけではなく、好き好んで自ら性懲りも無くやってくるらしいです。

真偽のほどは分かりませんが、私たちは手に入れたものはいずれ当たり前になるという習性を持っているのですね。

結局、世界中の誰であれ例外なく、ずっと満たされている状態でいられる人というのはいないということなんですね。

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