波動が変わると視点が変化する

誰もが一度は行ったことのある映画館をイメージしてみてください。目の前には巨大なスクリーンがあって、あなたはその特等席に座ってスクリーンに映る映像を観ているのです。

スクリーンは巨大であっても、あなたの席からは一度にそのスクリーンの隅々までが楽に目に入るわけです。

一方もしもスクリーンにほとんどピッタリとくっついた状態で、映画を観るとしたらどうでしょうか?

スクリーンに映る映像のほんのごく一部しか目に入らないので、ほとんど何を観ているのかも分からなくなってしまうはずです。

この場合のあなたは、特等席に座っている時のあなたと視点が違うということです。当たり前ですが、視点によってこれだけの差が出るわけです。

さてここで、次元を変えるレベルの発想の転換をしてみて欲しいのですが、スクリーン全体を時空の広がりだと想像してみてください。

空間的には宇宙レベルの大きさであり、時間的には過去から未来へと無限に続く時間の広がりがあるとするのです。

なんなら時空をもっと限定しても構いません。空間的には地球サイズに、時間的には人間の一生分に相当する100年程度に。

そしてこの設定において、時空スクリーンに映し出されているのは、あなたの一生分の人生というわけです。

特等席に座っているのが、あなたのハイヤーセルフなのです。そして、自我としてのあなたはスクリーンに張り付いて生きているというわけです。

だから、実際のあなたが把握できるのは周囲の空間と現在だけなのですが、あなたのハイヤーセルフはあなたが一生を過ごす全ての時空間を瞬間的に見渡すことができるのです。

この差は決定的です。私たちには明日自分がどこにいて、どうなるのか本当のところ分からずに暮らしているのですから、不安になっても当然です。

ハイヤーセルフは、あなたの一生がどのように展開するのかが全部一度に見渡せているので、どんな不安もありません。

これが自我とハイヤーセルフの視点の違いなのです。視点の違いは次元の違いとも言えますし、波動の違いとも言えます。

このイメージがある程度明確になっていけば、ハイヤーセルフさんへの信頼がさらに育っていってくれるはずですね。

現在を犠牲にしない

私が理解して記憶している限りにおいてですが、子供から成長していく段階で教え込まれたこととは、「未来のために現在を犠牲にしなさい」ということです。

もちろん、犠牲という言葉が使われていたわけではないのですが、培ってきたことをシンプルに表現すると、結果的にそうなるということです。

とにかく今日という時間は、未来のためにあるという教えです。まだやってきてもいない、まだ見ぬ未来のために、最も大切な今を犠牲にするのです。

何というバカバカしい生き方を教わってしまったものでしょうか?最大に極端なことを言えば、幼稚園時代は小学校時代のため、小学校時代は中学時代のためと、それが延々と続くわけです。

そして、いつもいつも明日のために生きることになるのです。未来が目的であり、今日が手段に成り下がってしまっているのです。

未来のことは信頼することが一番です。どう信頼するのかというと、どう呼んでもいいのですが、自分の本質、あるいはハイヤーセルフ、ハイヤーマインドの存在を信頼するのです。

今ここにすでに用意してあるものだって、彼らによって手配されたもので溢れているのです。当然、未来も何ら違いはありません。

私たちがやることは、びっくりするくらいにシンプルなたったひとつのこと。自分が何を望んでいるのかを彼らに具体的に知らせて、あとは今を思い切り楽しむこと。

彼らの手配の邪魔を絶対しないことです。何が1番邪魔することになるかというと、今という瞬間を犠牲にして自分の波動を下げ続けてしまうことです。

小学生の時に、先生からこのように教えてもらっていれば、人生は全く異なる様相を呈していたことでしょうね。

とはいえ、今からでも少しも遅くはありません。考え方、生き方をガラッと変えて、信頼をベースに楽しむことを続けていくなら、素晴らしい人生がやってくるのですね。

どんな時も自分が先

「どけー、どけー、俺が先だー!」という厚かましい迷惑な人のことを言っているのではありません。それで思い出したことがあります。

何十年も前のこと、エレベーターに乗っていると、幼い女の子とその両親の三人が乗ってきました。それからエレベーターが次の階で止まり、ドアが開いた時のことです。

その親子が降りようとしているところに、それを無視してか数人の叔母さまたちが乗り込んで来ようとしたのです。その時です。

その女の子のお父さんが、突然人格豹変して、「われ〜、◯◯殺◯◯〜!」と怒鳴りつけたのです。完全にその道の人という感じ。

それまで、あれほどの猫撫で声で娘さんと話しをしていたのに…。乗り込んで来ようとしていた叔母さまたちの顔も恐怖で引きつっていましたね。

こんな話しをしたかったわけではありませぬ。気を取り直して、「どんな時も自分が先」というのは、自分のエネルギー状態が先という意味です。

自分の周りで起きているあらゆる状況は、自分自身のエネルギーが外側に投影された結果であるということです。

私たちは、穏やかでいられるときは別として、何か嫌なこととか困った事態に陥ったりすると、自分の波動を棚上げして外を見てしまうのです。

ただし間違って欲しくないのは、都合の悪いことが起きたからといって、自分の波動が悪いからだと単純に決めつける必要はありません。

そもそも都合が悪いことが起きたという判断を見直す必要があるのです。実は起きていること自体には、いいも悪いもなく完全に中立なのです。

起きたことを否定的に捉える前に、そこには必ず何らかの意味があることを思い出して、肯定的な反応をしておくのです。

そうすることで、その波動に見合った現実がその後やってきてくれることになるということです。この先、このようなチャンスがやってきたら是非試してみてください。

こう考えて生きるだけで、なんだか何がやってくるのかが楽しみに感じてきますね。言うのは易しですけど。 

信じることより信頼の方が好み

人生というのは、信じていることで構成されていると言っても過言ではありません。そのくらい、信じることのパワーというのは凄いのです。

強く強く信じて、それを妨げる別の信じ込みがなければ、それが現実化していくことは確実なのです。そうやって望みを叶えている人は実際にいるわけで、羨ましい限りですね。

さて、信じること、強く信じれば信念と言っても良いのですが、それと信頼とは似て非なるものなのだということを書きたいと思います。

信じるという場合には、信じる対象というか特定のターゲットが必ずあるのです。昨日のブログの例を使えば、「お金がなければ生きていけない」という信念。

それに対して、信頼というのはどんな対象もありません。というよりも対象を必要としない心の状態であると言えます。

結果に執着しないとか、委ねるとか、お任せ状態のような、心理状態のことなのです。だから、信じることとは根本的に異なるのです。

何かを信じてしまえば、その内容の如何に関わらず、それが強くなればなるほどそれにしがみつくことになります。信じていることと同化してしまうわけです。

また何かを信じると、その真逆が自動的に発生します。つまり、「お金がなければ生きていけない」を作れば、それを信じるかどうかは別として「お金がなくても生きていける」も生まれるわけです。

つまり信じることには、必ず表と裏が存在するのです。これが二元性の世界で起きていることと同じです。二極化しているものを、真逆にするのは骨の折れることです。

一方の信頼というのは、表も裏もありません。そういう意味では非二元ということもできますね。私の好みは非二元なのです。

できれば信じることや信じないということから解放されて生きていきたいという願いを持っています。とはいうものの、ネガティブビリーフ、否定的な信念はいまだにごっそりありますけどね。

否定的信念を暴く

自我である私たちが通常持っている発想とは違うのですが、癒していくということは結局のところ、これまで培ってきたものを捨てていく作業だということです。

何か素晴らしいものを身につけていくとか、新しいことを勉強してそれらを蓄積して、自分を補強していくということではないのです。

こういった話しはもう過去幾度となくお伝えしてきたのですが、自分自身も含めて再度確認しておく必要があるなと思ったのです。

培ってきたというと聞こえはいいですが、その中には勿論素晴らしいものもあるのですが、否定的なものもたくさん含まれています。

自分の人生の首を絞めている正体とは、詰まるところそれらの否定的な観念、あるいは否定的な信念などなのです。

例えば、「お金なんかなくても楽しく生きていける」ということを心から信じることができたら、人生は実際にそのようになっていくのです。

不思議なことですが、私たちは本当に信じていることは実現するということをどこかで知っているのです。

それなら、なぜ「お金なんかなくても楽しく生きていける」を心から信じようとしないのかということを疑問に感じるはず。

それはもちろん、「お金がなくなったら生きていけない」という否定的な信念を持っているからですね。こちらを心から信じているわけです。

この二つの相反する信念のうち、否定的なものを捨てて肯定的なものだけにしてしまえば、本当にそれが叶うのに、なぜそれをしないのか?

ここがミソだと思うのです。その理由を考えてみたのですが、いくつかあるような気がします。例えば、「一度信じたことはそう簡単には覆せない」という信念があるようです。

あるいは、「その信念を捨ててしまったら、これまでの自分が消えてしまう」という信念です。このようにして、否定的な信念は複数のものが連鎖して互いを補強しているのです。

こうして否定的な信念、観念の正体を暴いていくことで、それを意識に上らせることでそのパワーを小さくしていくことができるのだと思いますので、ぜひ実践してみてください。

付け加えると、私の場合は肯定的な信念や観念もいらない派です。そもそも信じるということに興味も情熱もないのです。この話しはまた別のブログで書いてみようと思います。

瞑想を手段にしない

何日か前のブログ「未来の自分との会話」の中で、瞑想や腹式呼吸を頑張ったからと言って、覚醒するわけではないと言われてしまったのです。

薄々は気づいてはいたことですが、私なりに反省したのです。要するに、覚醒に至るための手段というものは一切ないということなのでしょうね。

明確な手段が用意されているなら、それを命懸けでやり通せば良いわけですから。手段がないからこそ、多くの人が苦悩してきた歴史があるわけです。

そしてもう一つ、頭を切り替えなければならないことがあるのですが、それは瞑想を何かの目的を達成するための手段にしてはならないということ。

お風呂に入るのは、身体を綺麗にするための手段としてみることもできますが、一方で気持ちよくリラックスできるので、お風呂に入ること自体が好きというのがあります。

後者の場合は、お風呂に入ることは手段でもあり目的でもあるわけです。瞑想もそれと全く同じように捉える必要があるということです。

リラックスして気持ちを落ち着かせるなどの目的で瞑想を手段として使うのも良いのですが、もっと良いのは瞑想が好きだから、楽しみたいのでそれ自体が目的となっている場合です。

以前どこかで書いたことがあるのですが、一般的に言って手段と目的が明確に分かれている場合、その原動力は恐れ(防衛)であることが多いのです。

一方で、手段と目的が重なっていたり、あるいは一体である場合、その原動力は愛であると言ってもいいと思います。

最近知った呼吸法(喉を広げるやり方)と瞑想の組み合わせ、私にとってはとてもマッチしているようで、もう少しやってみてこれやっぱり良いとなったら、いずれここで取りあげますね。

月星座を知って驚く

テレビの朝の情報番組でよくやっている星座占いコーナーというのがありますね。会社員の頃に朝のお出かけ前にチラ見していたのですが、もうかれこれ20年以上はまったく見なくなってしまいましたが。

その星座占い、実はあまり興味はなかったのです。なぜなら、人をたったの12種類に分類するわけですから、粗過ぎるだろうと思って。

ところが、詳しい人からしたら今更なのですが、一般に知れ渡っている星座占いは、太陽星座の方で、もう一つ月星座というのもあるのですね。

誰もが太陽星座と月星座を持っているので、組み合わせとしては12×12=144通りだけ種類があることになるのです。

それを知ってから、急にこれはちょっと興味深くなってきたなと思って、自分の月星座を調べてみたのです。ちなみに月星座を調べるには、生年月日に加えて生まれた場所と時間の情報が必要です。

そしてそれぞれをざっくり言うと、太陽星座は表の自分または社会的な自分を意味していて、月星座の方は裏の自分もしくは内面の自分を意味しているのだとか。

そもそも占いですから、100%当たると言うことはないのでしょうけれど、私の場合はまさにドンピシャで当たっていました。

ネット上の情報だけですが、かなり時間をかけてたくさんのサイトを見てみたのですが、本当に自分を丸裸にされた感じがしました。

その上で、自分が薄々気づいていたことが明白になったり、自分が感じている日常的な不満がどこからやってくるのかなども、その理由がかなりはっきり分かったのです。

星占い恐るべし。少しでも自分が気持ちよく生きていけるように、改めて日常の生活を顧みて改善できるところは変えていけるようにしていきたいものですね。

全体性と一つになる

ここのところずっと毎日書くブログの内容が、続きもののようになってしまっています。きっと自分の中では、その内容が頭から離れずにあるからなのでしょうね。

ただ、読む立場からしたら、少し不便かもしれないですね。これまでの内容を覚えておいて読むなどということは、普通ないからです。

だから本当は、毎日独立した内容である方が都合がいいはずです。ということは分かっているのですが、残念ながら今日も昨日のブログの続き、あるいは発展型になりそうです。

昨日のブログでは、生まれた時からずっと自分と共にある感覚や刺激というのは、その存在に気づけなくなってしまうということを書きました。

それに気づくことこそが、本当の自分に気づくことになるのではないかと。なぜなら、本当の自分が自分から離れたり、消えてしまったりしたことは決してないと思うからです。

これをもっと具体的なレベルに落とし込んでみたのですが、そうすると一番自分にとって無理ない仮説として、あの全体性の感覚こそが本当の自分の感覚なのだろうと。

だとすると、その感覚をどういうわけか知っている自分が未だに自我まみれで暮らしているのはどういうわけなんだろうか?

多分、全体性の感覚を感じるその度合いが、それそのものの感覚に比べると1%にも満たないくらいに微かなものだからかもしれません。

それが正しいのなら、それをもっともっとストレートにドスンと感じることができれば、自我の重力圏から脱出できるような気もします。

それともう一つ、1日のうちのどれくらいの時間、その感覚を感じていられるかというのも大きな要素になってきそうです。

この二つのことをどうやったらクリアしていけるのか、これも自分で解決はできそうにないので未来の自分、あるいはハイヤーセルフにでも聞いてみようと思います。

そんなに都合よく教えてはもらえないはず、という否定的な信念をゴミ箱に捨ててしまえればいいのですが…。

気づくだけ、ただそれだけだった

昨日のブログでは、目的意識を持つこと自体があるがままを認められていないことを意味するので、覚醒を目標にすることほどバカバカしいことはないんだと。

全てはOK、全てはうまく行っていると気づくことだと。そんなことを前提にしつつ瞑想していたら、ちょっと気づいたことがありました。

それは、例えば生まれた時からずっとある一定の音が聞こえていたとします。決して途切れることがなく、それはずっと自分と共にあったとします。

その時、自分はその音が鳴っていることに気づくことができるのかと。変化せずにずっと在るものに気づくためには、一度でもそれがなくなったり変化する必要があるのです。

一定のスピードで運動している乗り物に乗っていて、それが動いているとは決して気づくことができないのと同じです。

なんらかのスピードの変化、つまりは加速度を感じた時に動いていたんだと気づくわけです。それと同じ原理。

どんな音であれ、どんな匂いであれ、どんな感覚であれ、それが生まれた瞬間からずっとこれまで変化せずにあれば、どうやっても気づけないということです。

なるほど、それと同じなのかもしれない。つまり、私とずっと一緒にあるもの、それこそが私の本質であるのです。

なんとかして、それに気づくことこそが覚醒するということなのかもしれませんね。そして気づいた瞬間に、そちら側へとシフトしてしまうのです。

これまで生きてきたつもりの私という自我の立場が希薄になってしまうのも予想がつきます。とはいえ、自我のことはどうなろうと気にならない感じもします。

あまりにも自分と共にあり続けているからこそ、気づけないでいるということ。こうしたことは知識としては知っていたのですが、このように言葉にするとより明確になりますね。

思い切りノーテンキに

昨日のブログに書いたのですが、覚醒した未来の自分から言われた言葉は次の2点でした。一つは、自分はこのままではダメだという信念が覚醒を阻む。

もう一つは、目的意識が覚醒を阻む。よく考えてみると、この二つは同じことを言っているのですね。

このままではOKではないと信じているからこそ、未来に向けて目標とか目的が生まれるわけですから。

このままでOKということに気づくなら、目的意識もなくなってしまうことになります。ダメなものをダメじゃないものにするという考え自体、そこに純粋な悦びがあるわけではないということですね。

覚醒したいと願うことこそ、否定的な信念がその大元になっているということです。その願望が自然と消滅する時こそが、覚醒に至ることになるのかなと。

この話題にピッタンコなoshoの言葉がありましたので、味わってみてください。ちなみに、覚醒=エンライトメント=光明を得る、ですので。

ひとたび理解したら、いっさいの目標は消える。そしてそのすべての目標と共に、”あなた”が消滅する–。その後に残るのがエンライトンメントだ。目的はないと知ることが、すべてあるがままでよいと知ることが–光明を得るということだ。私たちはみな同じ現実に参加している。比較する必要はない。

なるほど、覚醒することを願望として掲ることこそが、否定的信念がある証拠だったわけで、それが違和感だったのですね。

そこへのフォーカスをやめて、人生を思い切りノーテンキに楽しむ系にした方がよほど覚醒に近づくことになりそうです。