未来の自分との会話

昨日のブログでは、願望を実現した未来の自分と繋がって、そこからインスピレーションを授かるということを書きました。

書いただけではつまらないので、自分なりにお風呂の中で瞑想しつつ実践してみたのです。その結果を書いてみます。(私の妄想だと思って読んでみてください)

今の私:とうとうやったんですね!願望を実現できてどんな気持ちですか?

未来の私:どんな気持ちもない。願望していたのは君で、その君はもういないので。

今:えっ!私の生きてきた記憶もないのですか?

未来:記憶はあるが、誰かの人生という感覚でしかない。

今:そんなっ。でもそうかあ、確かに覚醒してしまったらそうなるしかないか。ところで、私はこれから先、どんな方法を実践すれば覚醒できるのでしょうか?

未来:どんな方法もない。そのままで何も問題ないのだから。

今:そう言われても、方法がなければ一体どうすればいいのでしょうか?

未来:自分はこのままではダメだ、という信念がある限りは覚醒できないだろう。

今:そうか、ダメだから覚醒できないのではなく、ダメだという信念があるから自我のままでい続けるということですね?

未来:その通り。瞑想をしたり、腹式呼吸をしたからと言って覚醒するわけではない。目的意識がなくならない限り、覚醒はやってこない。

今:う〜ん、具体的にはどうすればいいのか、皆目分かりません。とりあえず、時々こうして未来の私であるあなたと繋がって、その雰囲気だけでもまとうことができたらなと思います。

未来:いつでもどうぞ。

というような感じでしたね。覚醒するって、ちょっと残酷なことだなと改めて思いました。自分が消えていなくなるのですからね。

こんなことを一番の願望にしているのは、やっぱりちょっとおかしなことかもしれないなと。面白かったのは、こんなたわいのない妄想的な会話なのに、願望実現後の景色がよりリアルになったことですね。

未来の自分と繋がる

過去も未来も今この瞬間には実在しないというのは真実ですが、それは私たちが暮らしているこの次元でのことですね。

つまり、3次元の世界では時間を横断的に捉えることはできませんが、より上位の次元であればそうではありません。

だとすると、過去の自分も未来の自分も、自分の人生の全てが同時に存在すると言っても良さそうです。

昨日のブログで、願望実現について書きましたが、願望実現というのは必ず未来のことになるので、未来の自分が願望を実現しているのかどうかは、未来の自分に伺うのが一番です。

しかも、未来の自分がたった一つに決まっているというのも寂しいので、私としてはあらゆる可能性の数だけ未来の自分が同時に存在するのだと。

願望が実現できなかった自分もいるだろうし、しっかりと願望を実現できた自分もいるはずなのです。それも様々なレベルがあって然るべき。

ということを想定して、未来の自分の中でも最高の自分と繋がり、そこからインスピレーションを受け取ることができたら、とてもワクワクしますよね。

私の願望の場合は、最高の状態とはこの自分が消滅してしまった場合なので、誰でもない何かと繋がることになるのかなと。

その際、一体全体どんなインスピレーションを授けてくれるのか楽しみですが、それを受け取ることができるように現在の自分の波動をなるべく上げておくことが必要かもしれませんね。

「願望実現」に憂う

「願望実現」で検索したら、たくさんの動画がヒットしました。例えば、速攻夢実現とか、願望実現が一気に加速する!!、たった0.2秒で願望実現、願望実現の新しい方法発見!等々。

願望を現実化したいというのは、誰にとっても共通の夢なのですね。願望を実現する確かな方法を伝授しますと言われたら、もしそれが本当だとしたら絶対にその情報を逃したくはないですよね。

ただその前に、たった一つだけ願望を実現できるということだとしたら、自分が持っている最大の願望って何だろうと考えてみたのです。

皆さんはすぐに自分の願望を明確に表現できますか?私は、なかなか見つけることができないのです。決して無欲に生きているとかではありません。

欲望なら五万と持っていますから。若い時であれば、女性にモテたいとか、お金持ちになって裕福な暮らしをしたい等々。

でもこの年齢になってみると、もう願望らしい願望がないのかもと思ってしまったのです。ああつまらない人生だなと思ったりしたのですが。

捻り出したら、ようやく一つだけ見つかりました。それは、大声では言えないですが、小声で言うと「覚醒したい」なのです。

きっとこの願望だけは、どんな方法を伝授されたとしても実現できないだろうなと。なぜなら、その願望そのものがそれを阻止するからです。

「覚醒=自我の崩壊」ということなので、私の自我がそれを望んでいること自体が怪しいのですけれど。

とはいえ、そのビジョンを明確に持って、それに向けての許可を自分に与えて、それ相応の実践をして、あとは呑気に待っていればいいのかなと。

無責任かつ超楽観的に考えていて、その方が却って死ぬ気で頑張る系のやり方よりもいいのかなとこれも勝手に思っていますが、未来は如何に。

信じていることに気づくこと

昨日のブログでは、何かを信じている状態とは不自由であるということについて書きました。逆に言えば、信じることをやめれば人は自由になれるということ。

であるなら、なぜ信じることをやめないのか?そこにはどんなメリットがあるのか?あるいはなぜ信じることをやめられないのか?を見る必要がありそうですね。

メリットの一つとして思い浮かぶのが、防衛です。周囲から植え付けられたことに抵抗するよりも、それを信じる方が軋轢は少なくなるからです。

否定的な信じ込みの一番手は、自分には価値がないというものです。これほど自分を不自由にするものはありません。

それなのに、簡単には取り外すことができないので、多くの人が困っているわけです。これを信じることのメリットって何でしょう?

それはきっと、自分に不都合なことや嫌なことが起きた時に、自分には価値がないので当然だとして納得することができるということ。

そんなことのメリットよりも莫大なデメリットがあるのですけどね。そしてもう一つ、信じていることを止めることができないもっとも大きな理由は何でしょう?

それは、信じていることに気づかずに、それは事実だと思い込んでしまっているからなのでしょうね。

信じていることと思い込んでいることの違いは、自覚できるかどうかです。思い込みには自覚がありません。自覚がないものをやめることは不可能です。

今日のテーマはこれかもしれません。自分が事実だとしてすましていることは、実は信じているに過ぎなかったと気づくこと。

このことに気づくことができれば、信じていたことから解放され、晴れてあなたは自由の身になることができるのですね。

受容すれば自由になる

私たちのマインドというのは、色々と不思議なことが多くて、それを深く見つめてみるとなかなか興味深いものがあります。

マインドの中には、自分が信じている事柄が沢山入っているのです。それを信念と呼んでもいいし、その力は半端ではありません。

私たちの言動の全ては、そうした信じているものによって決定されてしまうからです。その信じている事柄と一致するものに対して、私たちは快を感じるのです。つまり気持ちがいいのです。

その逆に信じていることと異なることは不快に感じてしまうのです。その不快を排斥して、快を求めることで、毎日の生活が成り立っているようなものです。

そのため、信じていることと異なることを受容するのは気が進まないのです。気が進まないどころか、場合によっては拒絶してしまいます。

もしもその信じている事柄を一旦脇に置いて、やってきたものが何であれそれを受容することができたら、いずれはその信じている事柄から解放されるのです。

解放されるということは、その信じている事柄から自由になれるということです。これが何を意味しているのか?

私たちは自分が何かを信じるということによって、自分を縛って不自由な状態にしているということです。

受容するということは自由になるということと同じことなんですね。自由になりたいと願っているなら、受容すること。これしかないですね。

瞑想に代わる方法

瞑想というと、何か特別な状態にならなければならないとイメージしてしまうかもしれませんが、もっとシンプルなものなのです。

過去へのアクセスをやめて、未来へのアクセスもやめて、どこへも行かずにただここにいるだけでいいのです。

目をつぶる必要もありません。なんなら、目を開けておいて自分の眼球に意識を向けておくことができたら、そのほうが効果的かもしれません。

なぜならそうすることで、眼球があちこちに動かなくなるし、そうなると意識は確実に外側から内側へと向きを変えてくれるからです。

それだけだと退屈しそうであれば、そこに腹式呼吸を加えてみるのもいいですね。息を吸うときにお腹をプクッと膨らませるのです。

息を吐く時には、ゆっくりとやや時間をかけて吐いていきます。それだけでも、少し経つとジーンとしてくるかもしれません。

もしも何かを思い出したなら、それに気づいた段階でやめればいいだけです。あるいは何かのイメージが浮かんできても、同様にして気づいたらやめるのです。

本当にただこれだけ。うまく行こうが行くまいが、そんなことには構うことなく、大切なことはほんの少しの時間でも実践することです。

そしてしばらく経つうちに、何か感覚が変わってくることもあるかもしれません。その変化を楽しみにすれば、またそこから継続していけるのです。

楽器の演奏のように、ちょっとコツを掴んだらそこから更に自分なりの方法が見つかっていくはずです。ぜひ試してみてください。

ルールは守ろう!

先日5年ぶりに運転免許の更新に行ってきたのですが、今回はなんと「違反」のカテゴリーに入れられてしまっていたため(恥)、講習が2時間という長丁場でした。

「初めての更新」というカテゴリーのフレッシュな人たちと一緒のクラスだったのですが、どうも私が最年長者だったようです。

講習の内容で印象に残ったのは、横断歩道で歩行者を優先するというルール。講師の方が力説していましたが、このルールはあまり守られていないのだとか。

皆さんは、ご存知だったでしょうか?信号機のない横断歩道において、歩行者の姿があれば車両は止まらなければならないというルールです。

この一見もっともらしいルールですが、私は個人的には大反対なのです。予測し難い人間の行動を、ルールの中に取り込んだことが間違いだと思っているからです。

足の不自由なお年寄りなどは、クルマに先に行ってもらって自分はゆっくり横断したいと思うかもしれません。

あるいは、横断しようと思ったまま立ち止まってケータイを凝視している人がいたら、ドライバーはどうしたらいいのか分からないのです。

今朝たまたま体験したのですが、横断歩道に差し掛かる前に左斜め前方を走っていた自転車の人が、横断歩道のところで止まったのです。

私はルールだから仕方なく車を停車して待っていたのですが、その人は道路を横断せずに歩道を歩いていた人が通り過ぎるのを待って、歩道の方へと走り去って行ったのです。

こう言ったことはいくらでも起きる可能性があるわけです。交差点の脇の道からやってきた人が横断歩道に近づいてきたので停車したところ、その人は横断せずに道沿いに歩いて行ったこともあります。

下は、実際に私が毎日通っている道路の画像なのですが、このように横断歩道の前で腰掛けている人がいたら、あなたならどうしますか?困るでしょう?

そもそもが、質量の桁違いに大きい車両を、小さな人間一人のために停車させるということ一つとってみても非効率だし、エネルギーの損失でもあるのです。

このようなことはルール化するのではなく、ドライバーの良心に任せておくほうがいいのです。余裕のある人なら、歩行者を優先させようと思うはずですので。

理不尽だなと思ったとしても、ルールである以上私は守りますよ!「存在が与えてくださる全ての出来事に感謝し、喜んで受け入れます。」と日々唱えていますから(汗)。

自分は単なる媒体

私は、神という言葉に何か特別な印象を持っているわけではないので、ずっと神の存在を信じていると誰かが言っているのを聞くと、ちょっと違和感があるのです。

ただそこに否定する気持ちは全くないし、神に対してどのような概念や心象を持っていたとしても、それは個人的なものであると思っています。

神という言葉を使う代わりに、全体性とか存在などといった表現の方が身近な感じがするのは、擬人化できないからだろうなと。

神を神様のように擬人化してしまうと、途端に幼稚な発想に感じてしまうのが自分には合わないということですね。

一方でこの世界、この宇宙はすべからく神の顕れであるとする感覚も持っています。自分は神の出先機関なんだなというあの感覚。

自分の人生を通してあらゆる現象が起きるけれど、私が経験しているというよりも私は単なる媒体であり、私を通して神が経験している?

こんな感覚を持っている人は意外に多いのではないかと思っていますが、皆さんはいかがでしょうか?

自我にとってはこの手の話しは苦手なのでしょうけれど、罪悪感や自己嫌悪に喘いでいる人にとっては自分はただの媒体だというのは朗報なのではないかと。

媒体ということはどんな責任もないし、もちろんどんな賞賛される成果もありません。その軽さを味わってみることをお勧めします。

できる限り自分自身でいる

自分はなぜ生まれてきたのか?自分の人生の目的は一体なんなのだろう?誰でも一度はこのような疑問を持ったことがあると思います。

それが明確になったらきっとスッキリとして、思う存分人生を楽しむこともできるかもしれないと感じるわけです。

あるいは、自分や自分の能力をせっせと磨いて、なんらかの成果を残すとか、社会貢献ができたらもっといいかもしれません。

私は個人的には、誰にとっても共通するもっとシンプルな目的があるように感じています。それは、一言で言えば、「可能な限り本来の自分でいること」です。

これは外側(社会)に向けてのアウトプットではありません。だから目立たないかもしれないし、誰にも興味を持ってもらえないかもしれません。

けれども、与えられた生を楽しむためにも絶対的に必要で、最も大切なことではないかと思うのです。できる限り自分自身でいる、これですね!

これが難しい理由は、自我が多かれ少なかれ心理的自己防衛をしてしまうからです。防衛すると、極端な場合自分が誰なのかも分からなくなってしまいます。

なるべく無防備でいて、自分に嘘をつかない生き方を目指すということですね。

oshoも以下のように言っています。

食べ物を楽しむがいい。風呂を楽しむがいい。太陽を楽しむがいい。雨や風を楽しむがいい。あなたの手に入るすべてのものを楽しむのだ。そして、あなたが誰であろうと、あなたのままでいるがいい–偽善をなさず、ふりをせず、見せかけや体裁をつくろわず、自分自身に対して誠実でありなさい。

左脳→マインド、右脳→ハート

最近のブログを読んで下さっている方は、気づいておられると思いますが、右脳左脳といった単語が頻発しています。

これまで、14年余り続けてきたブログの内容からすると、ちょっと異質な感じがしてしまうかもしれません。

このブログではほとんどが目には見えない精神的なものを中心にお話ししてきたにもかかわらず、脳というのは物理的な身体の一部であるからですね。

身体を軽んじていたわけではないのですが、これまであまり身体を中心にした内容とはなっていなかったのは事実です。

というわけで、この違和感に対して言葉の使い方を変えることで、これまでと基本的に違う内容にはなっていないよ、ということを説明したいと思います。

シンプルに言えば、左脳→マインド、右脳→ハートというように置き換えて読んでいただければいいのではないかと。

それともう一つ、私がイメージとして持っていることがあるのですが、それはマインド=頭、ハート=胸、というものです。

これはそれぞれのエネルギーの位置を表すようなものです。頭が固いとか、頭を抱えるなどというイメージ通り、マインドのエネルギーは頭にあり、機能としては左脳が使われるということ。

一方で、ハートが揺さぶられるとか、ハートで伝わるのように、そこには言語化できないイメージがあり、つまりは右脳なわけですが、位置としては心臓のある胸の部分なのです。

まとめとして、マインドを司っているのが左脳であり、エネルギー的には頭の辺りに位置していて、ハートを司っているのが右脳であり、エネルギー的には胸の辺りということになります。

こんな感じで違和感を払拭してもらって、これからもブログを読んでいただけたらありがたいなと思います。