かつてのmixiの日記から

以前 mixi というSNS に入っていたことがあったのですが、10年ぶりくらいにログインしてみたら、まだアカウントはそのまま残っていました。

日記を毎日書いていたことを思い出して、見てみたら今よりも真面目な雰囲気で書いていましたね。でも内容は、今とあまり変わり映えしないようです。以下は、2011年10月29日の日記です。

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「私とは誰か?」と問うよりも、「私とは何か?」とやったほうが自分の場合はうまくいくようです。それは、「誰」という言葉にかけられたフィルタを通さずにいられるからです。 

そして面白いことに、何か?と問われると、ほんの少しだけイラつく気持ちがあるようにも感じます。自分は人物なんだぞ!とでも言いたげな。 

しかし、もっと明確に根っこを感じるには、「私はどこにある?」という問いが一番適切だということが分かりました。 

この問いはものすごく強烈に自分の本性を見ることへといざなってくれます。以前、ダグラスさんの実験をやり始めた頃にずっと使っていたものです。 

私は身体の中にも外にもどこにもいない、どこをどう探してもどうやっても見つけることができないとなった瞬間に、私はすべてだという感覚がやってきます。 

私はいないということが、私の本質なのだという何とも言えない感覚が、最大の救いなのかもしれません。いつもそれであれば、恐れがなくなって無防備でいられるからです。 

これほどの平安はどこにもありません。すべてになったとき、時間と空間を越えているのが分かるような気がします。 

気がするというのは、そのときには何も思考しない大いなる気づきがあるだけで、そこから抜けて普段の自分に戻ったときに、振り返ってそう感じるだけだからです。 

だからどうしても表現が曖昧になるのだと思っています。「それ」を信頼することができれば、いや信頼することによってより一層馴染んでくるはずです。 

その何もない空(くう)である気づきから、「私」という想念が立ち上がって、そこからあらゆる想念のお化けがやってくることが不思議でなりません。 

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気分の良い時とは?

誰でも気分が良いのが好きだと思うのですが、私なりに気分がいいのにも種類があるなあと思っています。

大きく分けて三種類ほどあるなと。一つ目は、明らかな外的要因がある場合です。例えば、試験に合格したとか、宝くじに当たったとか、好きな人に好きと言われた等々。

気分が良い原因が自分でもはっきり分かっている場合です。この時の気分には、多少なりとも興奮のようなものが混じっています。

二つ目は、自然環境的な要因がある場合です。私であれば、程よい気圧と気温、そして湿度が揃っていると、多少嫌なことがあったとしても気分が良いのです。

気候に左右されるという人は意外に多いかもしれませんね。憂鬱な海外出張があって、現地まで行って急に元気になったことがありました。

それは、日本と比べてその国の湿度が非常に低かったのが原因だと思っています。とにかく、気候は気分を大きく左右するのです。

そして最後の三つ目は、外側には何も要因となるものがなく、だからすぐには自分でもこの気分の良さは何だろうとなるのです。

最近でははっきり分かるようにもなってきました。それは、きっと自我が静かな状態になっている場合なのです。

自我が静かということは、自我からそれだけ解放された状態になっているということです。だからその時の気分の良さには、独特の雰囲気があるのです。

非常に静寂な落ち着きと、柔らかさと、広がった清々しさのようなものをまとっている感じがするのです。

残念なのは長続きしないということです。自我はいつだって活躍する時を狙っているのですから。自我=防衛=煩悩 ということが理解できれば、当たり前のことですね。

ジョウゴから抜ける

下のようなジョウゴの中に小さな玉状のものを投げ入れたら、少しの間斜めの部分をクルクル回りながら、いずれは下へと落ちていくのをイメージできますね。

逆に言えば、落ちないようにするためにはある程度の速度で回り続ける必要があります。玉の回転運動による遠心力と重力が釣り合えば、そのままずっと落ちずにいられるのです。

なんでこんなイメージが出てきたかというと、私たちの自我ってちょうどそんな感じなのではないかと思ったからです。

回転運動とは、思考活動のことです。常に思考を使って何かを考え続けていれば、自我として成立していられるのです。

ところが、万が一思考が止まってしまえば、真っ逆さまに下へと落ちて消えてしまう運命にあるということです。それが覚醒ということです。

それが自我の正体です。それならなぜ、深い瞑想をして思考が止まったかのようになっても、おいそれとは覚醒することができないのでしょうか?

それは、マインドの中の無自覚の部分、一般に無意識とか潜在意識と言われている部分の中に吹きすさぶ思考の嵐がいつも渦巻いているからです。

その部分が静かにならない限りは、ジョウゴの下から落ちて自我が消滅することはないということです。

私たちが見る夢の正体がそれですね。だから覚醒した人はもう夢を見ることがなくなってしまうのです。

瞑想の訓練をして、表面意識を静かにすることはとても大切なことですが、それだけではいつまで経っても本当にはマインドを静かにすることはできません。

癒しによって潜在意識のエネルギーを小さくして、その中の思考をも鎮めてあげることによって、ジョウゴから下へと落下していくことができるのですね。

死を意識することの大切さ

年齢を重ねていくと、若い人々と比べて有利だと思えるようなことがいくつかあります。一般的なイメージで言えば、年齢とともに次第に穏やかさが増していくのです。

若い時には、これから自分の人生を開拓していかねばならないし、未知数なことが盛りだくさんなので、どうしても力が入りがちなのです。

そのため余裕がなかったり、毎日が戦いの様相を呈したりすることになるのです。一方で、人生の先が見えてくればおよその見当がついてくるのです。

そうなれば、カリカリしていたものが肩の力が抜けてゆったりとした態度にもなれるわけです。高齢者の余裕のようなものをまとうようになるのです。

ところが、年齢を重ねていっても若い時と変わらないどころか、よりひどくなっていく人もいるのですね。

その違いは何かというと、そう言った人々の場合は、死が間近に迫ってきているということから目を背けて生きているのです。

そうなると、もっともっと結果を残さなければいけないとか、若い人には負けられないと言った気持ちが強いので、高齢者であることのメリットを享受できないままなのです。

偏屈な人がより偏屈になったり、頑固な人がもっと頑固になったり、より怒りが強く出るようになったりして、手がつけられなくなったりするわけです。

やっぱり、老いては子に従えではないですが、死をしっかりと意識することがどれほど大切なことかが分かりますね。

勝手な期待を捨てる

20世紀最大の物理学者と言ったら、アインシュタインの名前を挙げる人が多いかもしれませんね。天才というだけでなく、どことなく愛嬌のある容姿も素敵です。

きっと彼は年中頭の中で、誰も気づいたことのない理論を考えていたのだろうなと想像できるのですが、実は非常に女癖が悪かったのです。

というと聞こえが悪いですが、女性がすごく好きと言い換えればいいのでしょうか。なんたって、ノーベル賞を受賞した時に、その賞金を奥さんへの慰謝料に当てたようです。

私はそうしたエピソードを聞いて、一瞬はびっくりもしたのですが、より彼の人間的なところに触れられた感じがして、よかったなと思うのです。

もう一人、量子論の元となる波動方程式を発見した、シュレディンガーという有名な学者がいたのですが、彼はもっと破天荒だったようで、あちこちの女性に自分の子供を産ませていました。

難しい顔をして、一人静かに数式と向き合っているイメージを勝手に持っていたので、これまた意外だったのです。

覚醒してしまった人は、醜いエゴが消えてしまった状態なので、物凄い人格者のような立ち振る舞いをするものだと想像してしまいますが、実際は人格が消えているので人格者でもありません。

私たちは知らぬ間に、自分に都合のいい期待をしてしまうということですね。私は、自分の期待を見事に打ち破ってくれる事実に出会うのが好きです。

なんだか、小気味いいし、自分の勝手な期待の馬鹿馬鹿しさにも気づけるからですね。

千載一遇のチャンス

千載一遇のチャンスとは、ネットで意味を調べてみると、千年に一度あるかないかの大チャンスのことだそうです。

かなりオーバーな表現ではあるのですが、そのくらいのまたとない大チャンスがある日やってきます。

感のいい人なら察しがつくかもしれませんが、それが死にゆくということです。生と死はコインの裏表のように真反対と思っている人が多いかもしれません。

けれども、死というのは人生の一部です。人生の最後の瞬間にそれがやってくるので、生きることの範疇なのです。

それで一体それがどんな大チャンスなのかというと、自分の本当の姿が何であるかを気づかせてもらえるチャンスなのです。

ただ残念ながら、ほとんどの人が危篤になってしまったり、意識が朦朧となったりしてしまうので、その大切なチャンスを逃してしまうのですね。

非常にストイックで修行が大好きな人であれば、難行苦行に勤しむことでいつかは覚醒できるのでしょうけれど。

私のような辛いの嫌いというタイプにとっては、楽をして気づきたい気持ちが満々なので、死ぬ瞬間に期待しているのです。

意識をしっかりと保ったままでいられるなら、これが自分だと思っていたあらゆる感覚などが消えていく様を見ていることができるはず。

その結果、死が通り過ぎた後に残ったもの、それこそが本当の自分ということになるのですね。それを考えると、死ぬことも楽しみになりそうです。

ただし、大事なチャンス到来の時に、無意識にならないようにそれまでに十分に練習しておくことは必要でしょうね。

人助けには依存性がある

人は誰かを助けたいという欲求を持っています。欲求などと言ったら失礼かも知れませんね。優しさとか愛と表現した方がいいのかもしれません。

誰かのことを助けることができると、助けたことの報酬をもらうことができます。それは、お礼の言葉だったり、感謝だったり、自己満足だったり、いろいろです。

そもそも助ける立場というのは、非常に都合がいいのです。何一つ否定される恐れがないし、人助けは美徳とされているので自分の価値も上がるというものです。

誰かに迷惑をかけてしまったら罪悪感が来るのですが、助けることは逆にあらゆる嬉しい感情がやってきます。

けれども、「包帯を巻くことができなければ、傷口に触るな」という言葉があるのを知っていますか?

私は、学生の時にこの言葉と出会ってなるほどなと深く感銘を受けたのを覚えています。相手の人生という枠を見据えたなら、そう簡単に手を差し伸べることもできなくなるのです。

本当にそれが相手の人生にとってプラスになり得るのか?を考えるからです。その瞬間の相手の喜びや嬉しそうな表情、感謝の気持ちなどだけで早計に助けようと思うのは、未熟なマインドなのです。

私はとにかく見守るというのを自分の基本的なスタンスにしています。確かにすぐ手を差し伸べたら、自分は楽かもしれませんが、それはあまりに身勝手というものです。

すぐに相手のために何かしてあげようとしてしまう人、あれこれと相手のケアをして喜んでもらいたいと思う人、相手の期待に応えようと頑張る人。

まずは見守るという姿勢を覚えることを学んでもいいと思います。何であれ、長い目で見るという習慣を身につける必要があるということですね。

時間の流れから抜ける

私たちが思考の中にいるときには、現在を知ることはできません。なぜなら、思考は過去と未来の中でしか活動できないからです。

ところが、過去はもうすでに過ぎ去ってしまい、未来はまだやって来ていないのですから、実在しないところでしか思考は生きられないのです。

私たちの潜在意識は過去で膨れ上がり、それをベースに未来をイメージしつつ毎日を生きているということですね。

残念ながら、ここにはどんなリアリティも入り込めません。その逆に、深い瞑想状態のように思考が止まると、今度は実在しない過去と未来が消えてしまうのです。

その一方で時間というジャンルではない現在だけがここに存在するということが分かるようになるのです。

つまりは、私たちが日常的に活動している思考の世界では、リアルな世界を見ることはできていないということですね。それが、私たちの持っている時間感覚なのです。

こうしたことがあらためて分かってしまうと、この世界に流れる絶対的な時間というものなどどこにも存在しないということを認めるしかありません。

一瞬でも無思考を体験したことがあるなら、それを知っているはずです。言葉で表現するのは難しいですけど。

物語としての人生から脱出して、リアルな世界で生きたいのであれば、今日からでも瞑想を始める必要がありそうですね。

我慢には2種類ある

何も我慢せずに生きて来た、という人はまずいないはずですね。人間生きていれば、必ず我慢することは付いて回るのですから。

けれども、同じ我慢でもその原因、あるいは根拠となるものが2種類あるのをご存知でしょうか?今日の話しはそれほど難しいものではなく、ある意味当たり前のこと。

何かの熟達を目指して頑張っているとき、もう辞めたいと思ってもそこを何とか我慢して継続することで、望んだ目標に近づけるのです。

この場合は、そうしたいと願ってすることなので、その我慢には自己犠牲がありません。筋トレでも、楽器のレッスンでも水泳の練習でもなんでもそうです。

それで心が疲弊するということはまずありません。逆に、我慢を乗り切ったことで達成感がやってくるかもしれません。

その一方で、全く異なる理由からくる我慢もあるのです。それはシンプルに表現すれば、自己防衛からくるものと言えます。

人は安心したいという根深い欲求を持っています。不安や恐れ、あるいは罪悪感などがやってくれば、あっという間に安心が消えて行ってしまうのです。

そうなったら是が非でも安心しようとして、あらゆる防衛を繰り出すのです。特に、敏感な人ほど他人との関わりの中で罪悪感を作り出しやすいものです。

その罪悪感から逃れるために、相手の期待に応えようと無理やり我慢をすることになるのです。この我慢は繰り返されれば必ず、いずれは牙を向いて本人に襲いかかってきます。

そして鬱になったり、あらゆる問題行動を引き起こしたり、身体の不調を起こしたりと言ったことが起きてくるのです。

自分がどちらの種類の我慢をより多くしてきたのかをしっかり認識することです。もしも、防衛からくる我慢を繰り返してきたなら、その生き方を変えていく決意が必要ですね。

相手の立場で考える

子供を対象としたある実験があるのですが、ある家庭で二人の子供がいるとします。上の子は4歳で、下の子が3歳とします。

その子供たちの前に2つの箱が置いてあり、それぞれをAの箱とBの箱とします。その部屋にお母さんが入ってきて、Aの箱におもちゃを入れてフタをして部屋を出ていきます。

次にお父さんが入ってきて、Aの箱からおもちゃを取り出して、それをBの箱に入れてフタをして出ていきます。

箱の中は外からは見えないようになっています。さて、しばらくしてまたお母さんがおもちゃを取りに部屋に入ってくるのですが、ここで子供たちに質問するのです。

「お母さんはどちらの箱を開けようとしますか?」と。すると下の子はBの箱を開けると言うらしいのです。

一方で、上の子はAの箱を開けると言うそうです。この違いはどこからくるのかというと、相手(この場合はお母さん)の立場に立って物事を考えているかどうかなのですね。

下の子は自分がBの箱におもちゃが入っていることを知っているので、その知識をそのまま使ってしまうということです。

上の子の方はあくまでもお母さんはBの箱におもちゃが入っていることを知らないという、お母さんの事情を理解しているのです。

このように、個体差はかなりあるのでしょうけれど、ある年齢を超えて初めて相手の事情を考慮することができるようになるのです。

マインドのこういった仕組みが何かの理由で発達不全を起こすと、相手の立場に立てない大人になってしまう可能性が出てくるのでしょう。

そのような人が仮に結婚して親になったとしたら、その親に育てられる子は健康な心を持って成長できるとはとても思えないですね。