私たちは、何かが起きることを望んでいます。楽しいこと、嬉しいこと、新しい発見。そして、今よりも自由で、満たされた自分になること。
反対に、何も起きない時間には、退屈や物足りなさを感じるのです。けれども、なぜ私たちは、今ここにあるものだけでは不十分だと感じるのでしょうか。
不足しているのは誰なのか。静かに座っているとき、音が聞こえ、景色が見え、身体の感覚や思考が現れている。そこには、さまざまな経験があります。
しかし、その経験の中に、何かが足りないと感じている「私」を見つけることはできるでしょうか。不足しているという感覚も、満たされたいという思考も、それ自体が現れている経験の一つに過ぎないのです。
私たちは、それらを「私の感覚」「私の思考」と呼び、それを所有する誰かがいると考えています。けれども、経験があることと、それを所有する独立した主体が存在することは、同じではありません。
もしかすると、何かを求め続ける私という存在もまた、思考によって描かれた物語なのではないでしょうか。
何も加える必要のない今があります。非二元は、何か特別な境地を獲得することではないのです。探求する私がいて、いつか真実を手に入れるという構図そのものを見つめること。
音が聞こえる。色が見える。思考が現れる。ただ、それだけのこと。そこに、経験とは別に、それらを経験している独立した誰かがいると、直接確かめられるでしょうか。
何かを得ようとすることも、何かを失うことも、現れては消えていく。そのすべてを所有し、管理しなければならない「私」が見つからないとしたら、今この瞬間を、根本的に不完全なものと考える必要はないのです。
もちろん、生活には解決すべき問題も、自然に生まれる望みもあります。けれども、行動することと、今の自分には何かが欠けていると信じることは、別のことです。
何かが満たされることで、存在が完全になるのではないのです。そもそも、不完全な存在としての「私」が、思考の外に見つからないのだとしたら。
何も起きていないように見える、この何でもない瞬間。そこには、何かを付け加えなければならない誰もいないのですね。 with Claris

