X=3 って何?

私の記憶では、一次方程式を習うのは中学一年生の時だったと思います。例えば次の式 2x=6 があるとして、これを解くと、x=3となりますね。

大人になってこれが解けない人はあまりいないだろうと思いますが、初めて計算式の中に数字に紛れて x というアルファベット文字が入ってくるわけです。

そのせいで、x という文字と3 という数字がイコールだということが、生理的に理解できないという子供がいるらしいのです。

確かに 2+1=3 なら分かるのですが、どうしてxという文字が3という数字と同じなのか?と密かに心の中で不信感を抱いてしまったら、その先の数学の勉強が苦手になっても不思議ではないですね。

こうしたことの心のケアを生徒一人ひとりに対してきめ細かくしていくのは、現実的には難しいことなのかもしれません。

そのくらい人の感性というのは、思っている以上に違いがあるということですね。それが最初のちょっとした違和感を生むのです。

そしてそれが、一つ目のボタンのかけ違いのようにその後にずっと大きな影響を及ぼし続けてしまうわけです。

子供たちに物を教えるということが、どれほど注意深く熱意を持ってなされなければならないかが分かりますね。

私の密かな希望として、子供たちにこのブログでいつもお伝えしているようなことを、できるだけ分かりやすく教えることができたらなと思っています。

ただし、子供たちに興味を持って聞いてもらえるようにできるかどうか、そこが一番大事なところですね。

人間なんてそんなもの

多くのクライアントさんとセッションをしてきて、時々すごく違和感を感じることがあるのですが、それは自らの否定的な部分を思いのほか激しく攻撃してしまうということです。

例えば、人の不幸を喜んでしまったり、逆に人の幸福を妬んでしまったりと言ったことを、とても嫌うのです。

素直に人の幸せを祝福したり、人の不幸を悲しんだりすることができない。そうしたことを必要以上に忌み嫌うのです。

私からすると、そんなことは誰の心の中にもあるものだし、少しばかりの大小の違いはあったとしても、人間なんて所詮はそんなものだと思っているのです。

私たちは、自分が惨めな状態でいることをとても恐れているし、何とかして惨めではない自分になろうと必死になって生きているのです。

その必死さのエネルギーが仇となって嫉妬心を作り出すし、自分と他人を比べて一喜一憂してしまうのです。それを責めてしまったら、立つ瀬がないでしょう。

こうした度を過ぎた自己否定はどこからくるのでしょうか?それは、幼い頃に繰り返し親から否定された(と感じた)ことが原因なのです。

この自己否定感が自己イメージの土台となってしまい、否定するべき自分を見つけるや否や、ほらやっぱりとばかりに否定に走ることになるのです。

私に言わせれば、言われなき否定なのです。マインドの仕組みをしっかり理解すれば、どんなマインドでも否定する必要はないと気づくようになるのです。

そうなったら、それまでどれほど自分のことを理不尽なほどに否定してきたか、しみじみ分かるというものですね。

進路を絶たれる経験

人生では成功することもあるし失敗してしまうこともありますが、どちらがより気づきを得ることになるかと言えば、勿論失敗した時だと思っています。

成功は嬉しいけれど、失敗は辛いです。けれども、その辛さが骨身に沁みるほどであればあるほど、そこから大切な気づきを得ることができるのです。

ブッダが6年もの間、あらゆる難行苦行を経験した後に、少しも変わることができなかったとして心の底から挫折したのです。

その大きな大きな失敗のおかげで、自我が落ちていってくれたのです。自我が観念したのです。それで覚醒することになったのですね。

親鸞聖人が、阿弥陀仏の慈悲を信じてひたすら念仏を唱えれば、本当の幸せを手に入れられると説いたのも、実はその前に決定的な挫折をしたからです。

比叡山で散々修行をした結果、1ミリも煩悩が減ることはなかったとして、一人その修行を中座して山を降りてきてしまったのです。

そういったとてつもない大きな失敗によって、心底自力では無理だと悟ったからこそ、他力本願を推奨するようになったのです。

だから、一般人が言われるままに念仏を唱えたところで、そうは問屋がおろさないということになるのです。純粋な帰依の状態にはなれないのです。

徹底的に打ちのめされるような失敗をすることで、人は確実に路線を変えることができるようになるのですね。

モノは存在しない

私たちは様々なモノに囲まれて生きています。あなたが今過ごしている部屋の中には、ソファやテレビ、あるいは机やパソコンなどがあるかもしれません。

ところがそうしたモノは、確固とした存在ではないということが先端の量子論によって分かってきたのです。

あなたが認識するということで、それらとの「関係」を持つことで一時的に存在するように見えているということです。

その証拠に、あなたがその部屋から出ていってしまえば、部屋の中のあらゆるモノは不定の状態になるのです。

つまり、「色即是空」ということです。色というのはモノという意味で、モノはこれすなわち「空」であると言っているのです。

この「色即是空」が言わんとしていることに、人類はようやく科学の分野から追いついてきたということですね。

確固とした存在がないのは、モノだけではなく私たちの自我についても同じなのだろうと考えています。

以前より、自我というのは他者との関係性の上にあるということを言ってきました。ところが、私たちは自分(自我)を独立した個別の存在(モノ)だと思い込んでいるのです。

残念ですが、もうそろそろこの馬鹿げた信念を取り下げる時が近づいているのだと思います。私やあなたはいないのです。

それは関係性でしかなかったのです。だから私たち自我は、本当には独りでは生きていけないのです。ただし、思考によって擬似的に他との関係性を維持することは可能です。

思考をグルグル回転させておけば、自我は思考内の対象との関係性の上に存続できるからです。自我にとって、瞑想が好ましくないと感じるのはこうした理由があったのですね。

ゆったりと過ごせてますか?

自我が防衛を緩めてくれたら、人生は自ずとゆったりとしたものになっていくはずです。大人になれば、自分で自分をゆったりさせようという選択肢も生まれます。

ところが、幼い頃から親自身がゆったりとした生き方をしていなければ、その環境下で子供がゆったりすることなど不可能なのです。

そして、深いところではゆったりしたいと願っているのに、そんなことには全く気づくことなく毎日をセカセカと過ごすことになるのです。

つまりは防衛の毎日、戦いの毎日、あれこれ気忙しい毎日、少しもゆっくりしていられない人生が、続くことになるのです。

そうした環境下で育つと、あるがままの自分でいてはいけないというメッセージを毎日受け取ってしまっているようなものなのです。

これが子供の問題行動を誘発することになってしまうのは、想像に難くありません。本当はこんなの嫌だ、が積まれていき、それが問題行動となって起きるのです。

子供自身にそれを気づいて欲しいと願うのは、全くもってお門違いですね。家庭での洗脳がとても深く染み付いてしまうのですから。

加えて、親の道徳感、倫理観、正しさ、そう言ったものを強く子供に押し付けてしまえば、子供は強烈な問題行動を起こして抵抗するようになるはずです。

人生が何かうまくいってないなあと感じたら、自分が自然でいられるようなゆったりとした時間を過ごせているかどうかをチェックすることですね。

死を持って生きる

昔から言い古された言葉ですが、「失ってみて初めて気づく」というのがあります。特に、自分にとって大切なものであればあるほど、その衝撃が大きいのです。

それがモノであれ、人であれ、環境であれ同じです。日本に避難してこられたウクライナの人がなんでもない平和な毎日の尊さ、ありがたさが分かったと。

病気になって初めて健康のありがたさが分かったという経験は、誰でも一度や二度はしているはずです。

ここから学べることは、失う前にその大切さを十分に気づいているなら、かなり生き方が変わるはずだということです。

では自分の命はどうでしょうか?人生の中で、絶対に100%確実なことは死ぬということ以外にはないのではないかと。

それだけ確定していることなのに、その時期が分からないということをいいことに、普段は死を見ようとしないで生きているのです。

私くらいの年齢になると、自然と目の前をチラついてくるので、無視もできなくなってくるのですが、若いうちは話題にするのも嫌うのです。

確かoshoが言っていたと思うのですが、人間というのは途方もなく感謝ができないと。ただ生きて在るということの大切さ、ありがたみに気づかないということです。

命への感謝を感じつつ生きるためには、死を目の前に見据えているということ。死にゆく瞬間に意識的でありたいと思うようになりました。

そのためには、普段の生活の中で意識的であり続ける必要がどうしてもあるのです。日頃の練習の成果が死ぬ瞬間に役に立つからです。

そんな感じで意識的である練習をすることで、いつも死の瞬間を想起できるという特典もついてくるのですね。

何もなさに死は通用しない

坂本龍一さんが亡くなったというニュースを目にしました。何年か前から癌と戦っておられるということは知っていましたが‥。

私とそれほど歳の差がないので、人ごとでは済まされない気持ちになります。癌の場合は、死の直前まである程度しっかりした状態で生活できるのですね。

ただニュースの中で、最期の方はあまりにも苦しいのでもう死なせてくれないか?と訴えられていたというようなことが書いてありました。

末期癌の苦痛は当然人によって違いがあるのでしょうけれど、何年も戦ってきてもうすでに先が分かっている状態で、苦しみ続けなければならないのは酷なことですね。

可能な限りの緩和ケアなどの処置ができていたのか、その辺はわかりません。ただもうそろそろ生き続けることに価値があるという石頭的発想はやめる必要があると思います。

九十四歳になって歩くこともできなくなって、何の楽しみもなくなってしまった母親が、早く死にたいと訴えてくるたびに、どうにもしてあげられないのが辛いです。

そんな時私はそんなこと言わないで、などと死を誤魔化すことなく、真正面からもうすぐだからねと言って慰めるようにしています。

実際人生というのはあっという間の出来事なのだと思うようになったのです。これが自分だと思い込んできた自分は、確かに死ぬ運命にあるのです。

けれども、その奥深くにある何もなさは死にようがないと分かります。死ぬようなものがないからです。ここの感覚をもっともっと強めていきたいと思います。

人間関係の希薄さ

今日、スポーツクラブの出入り口で、出て行こうとする私と外から急ぎ足で入ってこようとしている人と二人がちょうどすれ違ったのです。

そのすぐ後に、背後からその人から呼び止められたのです。40代くらいの奥様風の女性でした。その人が何かを言っているのですが、よく聞き取れず。

自分の名前を名乗っている感じがして、きっと何かで私のことを知っている人に違いないと思い、失礼にならないように一生懸命お顔を拝見したのです。

知り合いがほとんどいない私としては、クライアントさんの一人に違いないかもと思って見ると、何となく見たことがあるような気もしてきます。

次の瞬間、その人はマスクを外して私にそのお顔を見せてくださったのですが、やはりどうにも誰だかはっきりとは思い出すことができないのです。

すると、「木村さんですよね?」と言われたので、内心ホッとして「違います」とだけ。それでその人はすごく丁寧に人違いだったことを詫びた後、また急ぎ足で中へと消えていきました。

え、今の何だったんだろう?と思いながらも、相手が自分のことを知っているのだから、自分も相手のことを知っているはず。

そう思うだけで、本当に知っているような気がしてくるのですから不思議です。そんな体験ができて、なかなか面白かったのです。

あれほど互いに顔を見合っているのに、それでも間違えるっていうことは、他人のそら似というやつなのかもしれませんが…。

身近なところに、自分とそっくりな人がいるのかもしれないと思ったら、ちょっと嬉しいような気持ちになりましたね。

それにしても、外で誰かに声をかけられたら相手のことをクライアントさんとしか思えない人間関係の希薄さは、どうなんだろうと少し呆れ気味な本日でした。

内側優位で生きる

私たちは誰もが二つの世界を持っています。一つは、外側に拡がっているこの世界であり、もう一つは自分の内側の世界です。

この二つの世界をバランスよく生きることがとても大切なことです。どちらか一つだけでは、とても人生の味わいが薄いものになってしまうのです。

なぜなら人生では外側と内側の関係性が大事だからです。その両者がうまくコミュニケーションを取ることで、人生の彩りも鮮やかになるはずです。

多くの人が外側優位で生きているように私には見えます。周囲で起きていることに翻弄され、右往左往するのはまさに外側の事象に牛耳られている証拠です。

加えて外側優位の生き方では、無意識状態になってしまう可能性が高いのです。そして、いつまでも自分を深く知ることが難しいのです。

内側を見る習慣をつければ、自分のマインドがどういう状態でどのような働きをしているのかを知れるようになるはずです。

これまで外側には十分過ぎるほど注意を払ってきたので、極端に聞こえるかもしれませんが、できるだけ内側に意識を向けるようにしても大丈夫、社会で生きていくのに不便はないはずです。

そしてしばらく内側を見ることを続けていくと、次第にマインドを通り越してそのもっと奥にある静寂、あるいは何もなさ、全体性へと気づいていくこともできるはずです。

そうなったら、外側とともに生きる自分の自我は、自分の表層でしかないという感覚になっていくように思います。

何が起きても内側の中心深くでは、その静寂さが乱されることがないと知ることは、とても大きな助けになるでしょうね。私自身もまだまだですが…。

愛の対象は「存在」

野球の大谷選手のことが来年度の多くの教科書に載るらしいという情報を小耳に挟みました。それにしても凄い人気ですね。

すぐに私がイメージしたのは、C国の教科書にその国のトップのことがズラ〜っと掲載されているということ。何かそれとダブってしまったのです。

流石にそれと比べるのは申し訳ないとは思うのですが、「大谷愛」のような言葉を聞くと、大丈夫かな?と思ってしまうのです。

というのも、スポーツ選手の人気って結果が出ている時はいいのですが、少しでも結果が出なくなってしまうと、急激に萎んでしまうからです。

そしてもうダメだなと思われたら最後、どれほど人気があったとしても誰も鼻も引っ掛けない状態になってしまうのです。

そんなご都合主義に「愛」という言葉が張り付いていると、子供はもしかしたらそういうものを愛だと誤解してしまうかもしれません。

あるいは、子供自身が成績で結果が出ているときには賞賛されて、結果が出なくなると無視されるという惨めな姿を連想してしまうかもしれません。

愛の対象は能力でも姿形でもなく、「存在」なんだということを子供達に理解してもらえるような教育が必要だと思いますね。