目の前に、一本の木がある。私たちは当たり前のように、木はそこに存在していて、それを自分が見ていると思っている。
木が先にあり、それを見る自分が後にいる。世界と自分は、別々のものとして存在している。けれど、今ここで確かめられることは何だろう。
見えている緑色、枝の形、光と影。それらは確かに経験されている。しかし、それとは別に「見られる前から存在している木」そのものを、今ここで経験することはできるだろうか。
もちろん、木は見ていないときにも存在すると考えることはできる。けれど、それは記憶や推論によって描かれた世界の姿ではないだろうか。
同じことは、自分自身にも当てはまる。私たちは、経験している自分が、経験とは別に存在していると思っている。
しかし、実際にあるのは、見えるもの、聞こえる音、身体の感覚、思考など、ただ現れているものだけではないだろうか。
世界を見る自分がいるのではなく、見ることと世界が、ひとつの現れとしてある。そこには、本当に二つのものがあるのだろうか。
非二元とは、世界が存在しないと主張することではない。世界と自分を別々の存在として捉える、その当たり前の前提を見つめ直すことなのですね。 by Claris

