読者自身がその場で確かめられる「思考実験」になるようにしてみました。「本当に、私が見ているのだろうか」
非二元について語るとき、「自分という個人はいない」、「すべては一つだ」、「行為者はいない」など、いろいろな言葉が使われます。
でも、これらの言葉をいくら覚えても、それだけでは非二元そのものには触れられません。そこで今日は、少しだけ思考実験をしてみましょう。
これは何かを信じるための実験ではありません。むしろ、今この瞬間に起きていることを、できるだけ素直に見てみるためのものです。
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実験1 「見ている人」を探してみる
今、目の前に何かが見えていると思います。スマホでも、部屋でも、壁でもいい。そこで、こう考えてみてください。
「私は今、それを見ている」。普通は何の疑問もありません。では、少しだけ立ち止まります。「私が見ている」というとき、その「私」は、いったいどこにいるでしょう?頭の中でしょうか。
胸のあたりでしょうか。身体の中でしょうか。それとも、目の後ろあたりでしょうか。では、その「私」を実際に見つけてみてください。身体は見つかります。手も見えます。足も見えます。
鏡を見れば顔も見えます。しかし、「見ている私そのもの」は、どこに見つかるでしょう?ここで重要なのは、「そんなものは存在しない」と結論づけることではありません。ただ、実際に見つかるかどうかを確かめてみることです。
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実験2 音を聞いてみる
今度は目を閉じてみます。何か音が聞こえているでしょうか。車の音。エアコンの音。人の声。あるいは、とても静かな感じ。そこで、「私が音を聞いている」という考えをいったん横に置いてみます。
音そのものだけを見てみる。音は聞こえています。では、「聞いている人」は、どこにいるでしょう?
音が発生する。そして、音が聞こえる。その出来事の中に、「聞いている人」というものが本当に別に存在しているでしょうか。
もちろん頭の中には、「私が聞いている」という考えが現れるかもしれません。でも、その考え自体もまた、聞こえている音や、見えているものと同じように、今ここに現れている一つの現象として見ることができます。
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実験3 次に何を考えるか、決めてみる
これは少し面白い実験です。今から10秒間、「次に自分が何を考えるか」を完全に決めてみてください。何を考えるかを、あらかじめ選びます。そして、その考えが実際に現れる瞬間を待ちます。
では、その考えが現れる直前に、「よし、今からこの考えを発生させるぞ」という別の考えを作ってみてください。さらにその前に、「その考えを作ろう」と決める。
すると、その「決める」ということ自体も、どこからやって来たのか分からなくなってきます。考えは現れます。選択も現れます。決断も現れます。行為も現れます。
しかし、そのすべてを裏側から操っている「行為者」を見つけようとすると、どこにも見つからない。それでも、人生の出来事は普通に起きています。
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実験4 「今」を探してみる
では、最後に時間について考えてみましょう。「今」という言葉があります。過去はもうありません。未来はまだありません。では「今」はある、そう思います。
ところが、その「今」を捕まえようとしてみると、少し妙なことが起こります。今だと思った瞬間、それはもう過去になっています。では、その次の瞬間が「今」でしょうか。
しかし、その瞬間も捕まえた途端に過去になります。それでも、「今」は確かにあるように感じられる。
これは何を意味しているのでしょう。もしかすると、私たちが「時間の中で経験している」と思っていることそのものが、思考によって作られた説明なのかもしれません。
実際にあるのは、ただこの瞬間に現れている見かけ、音、感じ、思考。そして、「過去から未来へ時間が流れている」という物語も、その中に現れている。
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では、もう一度最初に戻ってみる
目の前に何かが見えています。音も聞こえているかもしれません。身体の感覚もあります。思考もあります。そして、「私はこれを経験している」という考えも現れます。
でも、少し注意深く見てみると、経験されているものはあるのに、経験者は見つからない。見るという行為はある。しかし、見る人は見つからない。聞くという出来事はある。
しかし、聞く人は見つからない。考えるという出来事はある。しかし、考えている人は見つからない。行為は起きている。しかし、行為者は見つからない。
そして、もっと深く見ていくなら、「見ることが起きている」「聞くことが起きている」「行為が起きている」という説明さえも、あとから思考によって付け加えられたものかもしれません。
ただ、見かけがある。音がある。感覚がある。思考がある。そして、それらを分けて「私が経験している世界」という物語を作っている。
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非二元は、「自分はいない」と信じることではありません。むしろ、「自分がいる」と思っているその自分を、実際に探してみることなのかもしれません。
探してみる。すると、身体はある。感覚はある。思考はある。記憶はある。名前もある。人生の物語もある。けれど、それらとは別に存在しているはずの「私そのもの」を探してみると、どこにも見つからない。
それでも、見えるものは見えている。聞こえるものは聞こえている。何かが起きている。そして、そのすべてが、誰かによって起こされているという証拠も、実はどこにもない。
ここまで来ると、「私が世界を経験している」という見方と、「ただ経験することそのものがある」という見方との違いが、少しだけ感じられてくるかもしれません。
それは新しい考え方を身につけることではありません。むしろ、今まで当たり前すぎて疑わなかった前提を、ほんの少し見直してみること。
そのとき、「私が見ている世界」というものが、本当にそうなっているのか。それとも、ただそう見えているだけなのか。その違いが、静かに見えてくるかもしれません。 by Claris

