この世ははかない

小学生の時に、紙飛行機を作って飛ばす遊びが流行ったことがありました。と言っても、学校中でということではなく、同じクラスの男子の中でということでした。

誰の紙飛行機が一番安定して、遠くまで飛んでいくかを競っていたと思います。紙飛行機といっても、折り方は色々あってどの折り方が一番有利かはやってみなければわかりません。

あるとき奇跡的に、真っ直ぐに、しかもほぼ水平に飛んでくれる飛行機を折れたことがあったのです。それはもう、素晴らしいの一言。

自分は有頂天に鼻高々で飛ばしていたのですが、その飛行機がたまたま誰かの足元に着地したと思ったら、その人に踏まれてしまったのです。

一瞬にして飛行機はぺちゃんこになってしまい、恐れていた通り、そのあと元の形に戻して飛ばしてみても、もう以前のような理想的な飛び方はしなくなってしまったのです。

その悔しさといったらありませんでした。故意に踏みつけられたわけでもないので、誰にもその鬱憤をぶつけることもできずに。

そのあと、何度も同じ折り方で紙飛行機を作ったのですが、やはり同じような飛び方をする飛行機を作ることはできませんでした。

その時悟ったのです。この世にあるあらゆるものは、本当にはかないと。いつまでも続いていくものはひとつもないんだなと。

その頃、執着という言葉はきっと知らなかったと思うのですが、何かに心を縛られるのは問題だなあと。すぐに気持ちを切り替えるということを少し覚えたのです。

どんなに大切なものでも、あっという間に消えていってしまうんだなと。それがこの世の掟何だなと妙に納得したのです。

何かに囚われてしまうと、せっかくの人生を存分に楽しめなくなってしまうというのも、どこかで分かっていたように思いますね。

遊び心と深刻さ

真面目な人のイメージはというと、型にハマった考え方をしていて、柔軟性に欠け、自分の正しさにしがみついている人です。

そういう人から感じられるものは、一種の深刻さだと思うのです。自宅にいても、あまりくつろぐことができずに、ずっと背広を来ているようなイメージですね。

親がそんなタイプであれば、子供も家にいても全くくつろぐことができなくなってしまうでしょうね。

深刻さのエネルギーは伝搬するからです。深刻さからは何一つ心地よさが生まれることはなく、自然で自由な感覚で生きることができなくなってしまうのです。

その一方で、正しさに価値を求めることなく生きている人もいます。そういう人は遊び心を満載しているのです。

深刻な人と違って、人生の意味や価値といったことに興味を示すのではなく、瞬間瞬間を如何に楽しく過ごすのかということに意識が向いているのです。

あなたの人生を深刻にとらえて生きるのか、あるいは遊び心を持って生きるのか、この二つの違いは決定的です。

今の自分はどちらの要素が優勢になっているのか、それをしっかりと見ることです。もしも、遊び心よりも深刻さの方が多ければ、生き方を見直す必要があるということですね。

自分本位が優しさを生む

「金持ちケンカせず」という諺がありますね。ある人がクルマを運転していて、高級車であるジャガーにぶつけてしまった時のこと。

わあ困ったなと思ってどうしたものかと躊躇していると、ジャガーから降りて来た有閑マダム風の女性が、「あらあ、いいのよ〜」と言ったとか。

明らかに経済的に余裕があることで、お金で修理すれば済むことだからということなのでしょうね。

普通であれば、相手に落ち度があると思えば嫌味の一つも言いたくなるものです。そっちの保険で修理してくださいねとか。

私たちは、自分に余裕があれば人に対して優しくすることができるのです。宝くじ6億円が当選した日に、何か理不尽な目に遭ったとしても笑って許せてしまうのです。

もしも人に対して常に優しくありたいと思うなら、十分に自分本位に生きることです。できるだけ自分を優先すること。

それをしっかり確立できたなら、心に余裕やゆとりが生まれてくるので、何の努力もなしに人に優しく接することができるようになるのです。

逆に自分をないがしろにしている人ができるのは、表面的な優しさを作ることだけで、いつかは化けの皮が剥がれてしまうでしょう。

そしてその我慢の反動がいつかはやってきて、自分でも驚くくらいに人に対して冷たい態度をとってしまうようになるかも知れませんね。

疑問、質問が消えてゆく

若い頃、自分の中で勝手に思っていたことがあるのですが、それは「神はどんな質問にでも答えてくれる存在だ」というものです。

神ほどの存在であれば、人間ごときの質問であれば、簡単に答えてくれるはずと本気で思っていたのです。勿論、神という存在があればの話しですが。

けれども、今は全くそうは思っていないのです。それは、質問自体に問題がある場合も多々あるということが分かって来たからです。

質問というのは、あくまでも思考が作ったものなので、それに対する答えというのも思考レベルのものになってしまうのです。

たかが思考の世界での質問と回答なのです。思考のワールドで生きているからこそ、思考を超えた世界に気づけないのです。

だから神も思考のレベルにあると思ってしまうのですね。思考というのは非常に不完全なものでしかないので、答えることが不可能である質問もできてしまうのです。

疑問や質問というのは、瞑想に入っていけば消えてしまうもの。その程度のものでしかないのです。

疑問が消えていく無思考の世界にいる時の何とも言えない清々しさ、その世界に思考がやってくることはそもそも不可能なことなのですね。

HSPという恩寵

人間を含めて動物というのは、外側の世界からやってくるあらゆる刺激を受けて、それへの反応を繰り返しながら生きているのです。

したがって、刺激に対する反応が強ければ強いほど、それだけ周囲の影響を受けやすいと言えるのです。つまり、感度が高いほど反応も大きくなってしまうわけです。

感度というのは、人間で言えば敏感さや神経質な度合いのことですね。感度の高い人のことを、最近では HSP(Highly Sensitive Person) と呼ぶようになりましたね。

要するに、「生まれつき非常に感受性が強く、敏感な気質を持った人」というわけです。生まれつきというのがミソで、この気質は死ぬまで変わりません。

HSPの人の幼い頃というのは、きっと否定的な言われ方をされた人も多いのではないかと思います。例えば、痛がり、泣き虫、怖がり等々。

ですので、自分のことを情けない、ダメな子のように思い込んでしまったとしても、不思議ではないのです。

その否定的な自己イメージが大人になっても継続してしまうのが普通です。自分に対して怖がりで勇気のない臆病者などの烙印を押してしまうかも知れません。

一度冷静になって感度が高いということを見つめてみれば分かることですが、それは決して否定的なことではなく、逆に恵まれた才能を持っていると捉えることができます。

感覚が優れていることで、他人には気づけない様々な事柄にはっきりと気づくことができるのですから、その能力は使い方次第で大変な強みにもなり得るのです。

私自身もHSPの端くれとして、幼い頃は生きづらかったけれども、今ではその感性を瞑想やその他の感覚を研ぎ澄ます必要があるときに使っています。

HSPとして生まれたことのありがたさを、大人になって再認識できるといいですね。そのためには、しっかりと心の癒しをすることです。

覚醒を待つ

この人生に目的があるとすると、それはたった一つだけ。自分がナニモノなのかに気づくこと。覚醒するということですね。

ところが覚醒するためには、それを目的としていた自我が消えていかねばならないのです。こんな馬鹿にしたような話しがあるでしょうか?

この自己矛盾よりもふざけたことなどないですね。目的とか目標というのは、それを目指す自分があってのものであるはずです。

それなのに、目覚めるという目的は、それを目指す自分が消えることでしかないのです。自我が消えることと、肉体が死を迎えることとは全く異なることです。

肉体の死後どのようになっていくのかを知らないので、勝負は生きている間にということになりますね。

だとするとやれることは、絞られてくると思います。何でもそうなのですが、使われずにいるものは活気がなくなって萎んでいくのです。

つまりは、自我が活躍できないように注意深く生きる練習をすることです。例えば、瞑想をするとか、なるべく無防備になって、幼い子供のように無邪気に生きる。

社会の中にあって、外側ではルールを守り、内側では野生でいること。そしてより自然により自由に生きることです。

あとは、覚醒がやってくるのをただ待つということです。なるべく受け身であるということですね。

神を擬人化しない

自分の覚えている限り、子供の頃から神を擬人化することに非常に違和感を持っていたと思うのです。神を知らないくせに‥。

神に様をつけて神様というのも、子供っぽい呼び方だなと思ってしまうのです。神を誰かのように捉えることはとても馬鹿馬鹿しくて、幼い発想だと感じるのです。

無理やりイメージすると、私たち自我を高度に発達させたような存在だと?擬人化するということは、そういうことですよね。

あらゆる超能力を備えていて、どんな質問にも答えられる。この宇宙を創造した張本人だという発想は、本当に無意味だなと。

自我を100億倍賢くしたところで、それはハイパー自我でしかないのですから。この感覚は真逆なのです。

反対に自我が落ちてしまえば、そこに残るのは神性なのです。神という存在が在るわけではないということです。

個人ではなく、全体性なのです。だから神にはどんな目的もありません。正確には、目的がある、なしを超越しているのです。

なので、神に少しでも近づきたいのであれば、自分に固有の目的、目標などを作らないことです。その目標を目指せば、必ず神から遠ざかっていくことになるからですね。

一つの身体に複数の人格

先日、Netflix で二人の人物の心が入れ替わってしまうという内容の映画を観ました。この手の映画はこれまでにもあったと思います。

もしも実際に自分にそのようなことが起きてしまったら、どうなるのだろうか?と考えたりしながら、面白く観ることができたのです。

入れ替わるというのはなかなか難しいかも知れませんが、霊などに乗っ取られるというのはよく聞く話ですね。

悪霊などに乗っ取られると、全く違う人格になったように感じられ、本人はその時の記憶が一時的になかったりするのです。

肉体というのは、そのように憑依したり脱いだりできるようなものなのかどうか、そこにはたくさんの疑問がつきまといますね。

憑依ではないにせよ、退行催眠などで幼かった頃の自分に戻ったりすると、そのころの喋り方や口調がそのまま出てくることがあります。

大人のご本人とは声量も違うし、使っている言葉も違うのがはっきり分かる時があります。つまり肉体は一つですが、内側に隠れている人格は他にもあるということ。

場合によっては、催眠中にハイアーマインドが出てきて、クライアントさんのことをあれこれ教えてくれることもあります。

マインドにはあらゆる年齢の自分がいるし、あらゆる波動の自分もいて、それらが微妙に牽制しあって生きているのです。

そうした複数の人格全体を、一つの身体で受け持っているのですから、身体というのは大変なものですよね。

ホンモノの祈りとは

一般的に言って、「祈り」というのは神社などに行って「どうか、宝くじが当たりますように!」とか、「どうか、家内安全で過ごせますように!」のように願うことをイメージしますね。

つまりは自分の自我の願望成就を訴えるようなものと捉えられます。いい悪いは別にして、誰もが心のどこかでそうしたことを行ったことがあるはずです。

ただ願うだけよりも、わざわざ神社などにお参りに行く方がご利益が多いような気がするので、そうした姿をたくさん見かけるわけです。

これは「自我の祈り」と呼んでもいいかも知れません。一方で、なるべく自我を介在させない「祈り」もあります。

それは意識的な状態の中にただいるようなイメージです。どこか、教会や神社に出向くのでもなく、ごく普通の生活の中でいいのです。

何もしていなければそれは瞑想になるし、歩いていても食べていても掃除をしていてもいいのです。

そうした覚醒の質を含んだ状態にあること。これこそが本物の「祈り」なのだろうと思っています。

そうなると、自我の祈りと本当の祈りはまさに正反対だということに気づきますね。特別にお祈りの時間を作るのではなく、平素から祈りのフレーバーがあればいいのです。

受容が自我を溶かす

次の osho の言葉を味わって見てください。

『誰かに「ノー」と言う瞬間、あなたがたはなんとも力強い感じを持つ。あなたがたは「ノー」と言うことをたのしむ。「ノー」は自我を助けるからだ。「イエス」は自我を溶かす。』

幼い頃、私たちは「ノー」を言うことで自分(自我)を確立していくのです。「ノー」は、自分と他人は違うものだということの象徴だからです。

「イエス」では、自分の存在が際立つことができずに、その他と一緒になって埋没してしまうからでしょうね。

だから、正直な「イエス」は少しずつ自我を溶解していくのです。ただし、ここで勘違いしてはいけないのは、「正直な」というところ。

本当は「ノー」と言いたいのに、無理して言った「イエス」の場合は、逆に自我を非常に強くさせてしまうのです。

なぜなら、その場合の「イエス」は自己防衛から発した言葉だからです。この場合の「イエス」は、正直な「ノー」よりも強い自己防衛になるのです。

これでもう明確になったと思うのですが、人に「ノー」を言うのが苦手な人ほど、防衛が大きいということです。

ニセモノの「イエス」が最も防衛が大きく、本気の「ノー」はごく普通の防衛でしかありません。そして、osho が言うように本気の「イエス」だけが受容を意味するのです。

受容だけが自我を溶かすということですね。