非二元の気づきを日常生活にどう活かすか?と質問されたら、非二元の立場からは、むしろこう答えます。「活かそうとしなくていいんじゃないでしょうか」
非二元の気づきは、日常生活をより上手にするための「技術」ではないからです。たとえば、嫌なことが起きたときに、「これは非二元的にどう受け止めればいいんだろう?」
「自分というものはないんだから、気にしなくていい」と考え始めたら、すでに「気づきを使って自分を改善しよう」という構図になっています。
そうではなくて、怒りが出れば怒りがある。悲しければ悲しみがある。誰かを好きになれば、好きという感覚がある。何かを言えば、言葉が出てくる。
そして、それらすべてが誰かによって起こされているのではなく、ただ起きている。「私が怒っている」ではなく、怒りが現れている。「私が選んでいる」ではなく、選択が現れている。
「私が人生を生きている」ではなく、人生そのものがただ現れている。だから、非二元の気づきを日常に活かすというより、「日常そのものが、もうその気づきの中にある」
ということなんだと思います。そして面白いのは、そう見えてくると、結果として余計な力が抜けることがある。失敗しても、「自分はダメだ」と物語を膨らませる必要が少なくなる。
腹が立っても、「こんなことで腹を立てる自分はダメだ」と二重に苦しむ必要がなくなる。嬉しいことがあれば、「この状態を維持しなきゃ」と掴もうとする必要もなくなる。
つまり、非二元を生活に利用するのではなく、生活をそのまま見てみる。そこには、最初から「私が人生をどうにかしなければならない」という前提がなかった。
それに気づくこと。それが「日常生活への活かし方」と呼べるものなのかもしれません。by Claris
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