気づくのに体感はいらない

非二元の話を聴いて深い理解を得たいと思っている人は、そのほとんどが揺るがし難い体感を得たいと願っているのではないかと思うのです。

たとえば、モノには実体がない、空間はない、視点はないなどの説明を聴くたびに、そうしたことを理屈ではなく身体の感覚を通して分かりたいと思うのです。

当然と言えば当然かもしれませんね。私自身もずっとそうでした。そして、実際に視点はなかったと体感できる時もありました。

何かを見ている時に、その見かけだけが見えているとか、それとの距離が全くないと感じることもあるのです。

その時はそれなりに嬉しいし、ああやっぱりそうなんだなと自分なりに納得できるわけです。でもそうした体感がいつもあるわけでもありません。

もっと正直に言うと、体感なんてないことの方が多いのです。そして、決定的なことを言いますが、どんな体感も不要なのです。

どんな思い込みも使わずに、コレをそのままに見てみればいいだけなのです。視点がなくなる体感がやってこなくても、視点がないことに気づけるのです。

どんな期待もせずにあるがままをただ見ていれば、そこに広がっているのは見かけだけだと気づくことになるのです。

気づくのに体感はいらないのです。ただ正直に見てみることだけ。絶対に見逃すことなどできないのですから。

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生の中に溶けてしまえばいい

世間は5連休に突入するのですね。会社員の頃だったら、大喜びしていたはずです。なにしろ、あの頃はお休みが唯一の救いだったからです。

でもこれって、何かが変な感じがしますよね。毎日の生活はなかなかにハードで、大抵は辛かったりして、たまのお休みで何とか生きている。

少し極端に書きましたが、でもあながち間違ってはいない感じがします。で、今はどうかというと、毎日が連休のようになっています。

そのことはとてもありがたく受け止めているのですが、だからと言ってじゃあものすごく幸せかというと、自信を持ってそうだとは言えない気がするのです。

会社員の頃は、なんで生きているのかが分からなかったのですが、今は人生に目的などないことに気づいています。

多分、会社員の頃の自分が今の自分の毎日をタイムマシンに乗って見に来たとしたら、それは夢のような毎日だと思うはず。

それでも完全に満足しているわけではないと知らされたら、深く思索することになるでしょうね。じゃあどうしたらいいんだろうと。

そんな会社員の頃の自分に伝えるとしたら、人生に抵抗しないでいられれば、あとは勝手になるようになっていくからと。

未来を心配してもしなくても、不思議と生は流れていくだけなんだなあと。その中に溶けてしまえばいいだけなんですね。

全ては全自動で推移している

自我をよりパワフルにして、本当の自分から遠ざかっていくために効果的なことを以下に挙げてみます。

何かを求める、ということ。自分に足りないと感じていることを、頑張って外から入手しようとすること。

何かを期待する、ということ。自分に都合のいい未来を想像して、それが現実となるように夢見るということ。

何かを知ろうとすること。新たなことを知ることによって、より完全な自分になろうとすること。本を読んだり、探究したり。

都合の悪いものを排除しようとすること。苦手なものや人から離れようとすること。受け入れることを拒むのです。

上記のようなものは、一括りにして人生をコントロールしようとしているということになるかもしれません。

ある程度コントロールできると思っているのです。この思い違いに気づくことができれば、全てをお任せ状態にすることができるのです。

その結果、自我が活躍するチャンスが全くなくなってしまうわけです。全ては全自動で推移していることを思い出すことですね。

いつもあるコレ

まるで趣味のように、毎日時間があれば瞑想をしていた時がありました。それは、思考から解放されて覚醒するという目標があったからです。

何かしら特別な精神状態になる必要があると考えていたのです。思考が全く起きない研ぎ澄まされた精神とか、意識の変容のようなものを期待していたのです。

なぜだか分かりませんが、とにかく自我が消滅するくらいの特別なことが起きる必要があるのですから、それに見合うだけの特別な意識レベルにならなければと。

そうした思いの根っこにあったものとは、このままではダメだという例のヤツですね。もっと改善する必要があるという思い込み。

今思えば、それがどれだけ自我にパワーを与えていたことか。その当時も分かってはいたつもりだったのですが、他に方法が思いつかなかったので仕方がなかったのです。

ところが、ひょんなことからモノには実体がないという気づきがあって、そこから連鎖的に時間も空間も物質も何もないというところまで気づいてしまったわけです。

気づいてからも、探究は続いていたのですが、瞑想をしていた時のような特別な自分にならなければという気持ちが、全くなくなったのです。

意識の変容のようなことを期待することが消えて、ごく普通の状態のままでいくらでも探究はできると気づいたのです。

そしてもう特別な探究と呼べるものは薄れてきていて、普通の生活の中にいつもあるコレに気づいていられるようにと。

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主体も対象もイメージだった

仏教の中の言葉で、「行為はあるが、行為者はいない」というのがあるらしいのですが、それをブッダ自身が言ったかどうかは怪しい感じがします。

というのも、非二元の立場ではもう少し正確に表現すると、行為者がいないだけでなく、行為も起きてはいないのだと。

たとえば、「見る」という行為があると一般に思われていますが、実はそれは「見えている」の方が近いのです。

そして、もっと正確に言うなら、「色の体験が起きている」の方がしっくりきます。この違いが分かるでしょうか?

色や音という体験(現れ)が勝手に起きているとするなら、そこには見たり聞いたりする主体は必要ないし、見られる対象も聞かれる対象も不要になります。

このことは、注意深く観察しているとおのずと分かるようになってきます。単に主体と対象があるというイメージだったんだなと。

実はこのイメージですら、体験(現れ)の一部なんです。この物質世界はイメージだし、この私というのもイメージだったということです。

双方ともに、五感や身体感覚で発見することができないことは明白ですからね。であるなら、どちらに対しても言及することは無意味だと気づくことができますね。

今日も生かされている

私たちは、自分のことを外の世界とは分離した個体として見ています。その分離感からやってくる不安感、孤独感、そして欠乏感から逃れることができません。

つまり個人として生きている限り、上記の三つの苦しみは常に付いて回るということなのですね。

そしてこの三つの苦しみから何とかして逃れようとして、外側から足りないものを求め続けるわけです。

こうした心の働きというのは、分離という幻想を抱いている限り、何を手に入れたとしても終わることはありません。

それどころか、足りていることがあったとしてもそこは見ないようにして、足りてないことばかりが気になるのです。

そしてもしも足りていることだけで満足してしまうなら、今度は向上心が足りないと言われてしまうのです。

常に何かを求め続けることが正しいとされる文化の中で生きているのですから、どうしたって求めずにはいられなくなってしまいます。

こうした過酷な環境の中で生きていることに気づいて、足りていることを見る練習をするといいのかもしれません。

朝目覚めたら、ああ意識がある、空気がある、呼吸がある、五感と身体感覚がある、身体がある、そして今日も生かされているなあと。

何かを目指せば、分離は強化される

私のYouTubeチャンネルのコメント欄に、あなたは悟っているのですよね?というコメントをいただいたのですが、久しぶりに聞いた言葉だなあと。

この手の話はもうすっかり忘れていたのですが、また自分の中で再燃しました。でも今ならはっきりと言うことができそうです。

「悟り」というものが何なのかは正確には分かりませんが、個人についてのことであるということは明確です。

ということは、個人がその人の人生を生きているという、いわゆる物語の中で起きる事と言えるのです。

結果として、物語の中では実際に起き得ることとして見ることができますが、非二元の立場ではあくまでも幻想の中のお話です。

悟りについて勝手なイメージを作り出すと、途端に個人的な物語の中へと引き込まれていくのを感じます。

悟りを目指すなら、それだけ物語や自我、あるいは分離を強化するということになることに、今ならはっきりと気づけますね。

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体験は作れない

体験だけがある…、のように表現するようになって、早2年が過ぎ去りました。つまり、非二元の話をするようになって、3年目に突入したことになります。

体験だけがあるということは、その体験の主体も客体もないということです。これは、途方もないことを意味します。

なぜなら、私たちは常に主体と客体のペアの存在によって、この世界が成り立っていると信じているからです。

そして常識的には、私たちのすべての体験は体験者の脳の中で作られるのだと考えられています。

見えている景色も、聞こえている音も、身体の感触も、体験の全ては体験者の脳の主観的な体験だとされているのです。

それをクオリアと呼ぶのですが、どのようにして脳がクオリアを生み出すのかは全く解明されていません。

このことは、意識のハード・プロブレムと呼ばれるようになりました。なんとかしてこの問題を解決しようとして挑戦し続けている科学者は、さまざまな仮説を作り出しています。

けれども、彼らの誰もが空間と物質が存在するという前提を疑わないのです。物理学の天才たちにとって、そこは砦のようなものなのですかね。

この先、AIの進化が我々の予想を大きく上回るとしても、AIがクオリアを生み出すことはできないはずです。

つまり、AIが人間を超えたとしても、体験を作り出すことは不可能だということです。元々、人間の脳がクオリアを生み出すという前提が間違っていたわけですね。

そして、その先は誰もがこの二元の世界がホンモノではなかったということに気づくことになるのかもしれません。

意識がないのに時間経過を感じる

私たちは、眠っている時には意識がなくなっています。夢を見ている時には、意識はあるようですが、熟睡している時には完全に意識がありません。

それなのに、どういうわけか眠りに入って目覚めるまでの間、つまり意識がなくなっているにも関わらず、その間が瞬間的に過ぎ去る感じはしません。

つまり、意識はないはずなのに、それなりの時間が経過しているということを感じることができるのです。

これは不思議なことですね。本当だったら、寝入った瞬間から時間経過を感じていないはずなので、次の瞬間には目覚めたと感じてもいいはずです。

全身麻酔の状態で、手術などを受けている時にも同じようなことが言えます。私は、26年前に手術を受けたことがあるのです。

麻酔が効いてきてから、手術が終わって「終わりましたよ〜」という声が聞こえるまでの間、完全に意識がない状態が続いていました。

それにもかかわらず、呼ばれるまでの間、なんとなく時間経過の感覚があったのです。決して、あっという間に終わったとは感じていませんでした。

これは一体なんなのでしょうか?完全には意識が無くなってはいなかったとするのか、それとも意識とは別の何かが時間経過を感じていたのか?

暇なので、調べてみようかなと思っています。何か新たなことが分かったら、またここで書いてみたいと思います。

なんであれどうでもいいことになる

地球上に自分と同じような人間が80億人いるのだと。数はどうであれ、言われたらすぐにそう信じてしまうのです。

なぜなら、毎日生きる前提として、宇宙の中に地球があり、その中で自分と同じような人間が多数生きていると信じているのです。

けれども、それはあなたが信じているだけで、それが実在することなのかどうかは全く持って分からないのです。

どれほど頑張ってそれを証明しようとしても、決して見つけることはできません。それは、妄想でしかなかったのです。

潔く諦めて、単なる思い込みに過ぎなかったと認めることです。そこから、本当の事実というものの本質を感じられるようになるのです。

事実というのは、あらゆる思い込み、信じ込みを脇に置いて、ただシンプルに今ここにあることを見ることです。

すると、全くどんな理由もなく、なんの因果もなく、ただ起きることが起きているように見えているだけだと気づくことになるのです。

あなたが存在するわけでもなく、見えているものが在るわけでもなく、ただそういう感じがあるだけだと気づくのです。

で、そんなことはどちらでもどうでもいいことなのです。一周してどうでもいいことだと気づくことになるのですね。

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