世界を見ているのは、誰なのか

今、あなたの目の前に何かが見えています。部屋の壁。スマホ。机。あるいは、この文章を読んでいる画面。ごく当たり前のことです。そして私たちは、ほとんど疑うことなくこう考えています。

「私はここにいて、そこにあるものを見ている」でも、今日は少しだけ立ち止まってみましょう。本当にそうでしょうか。

たとえば、今この画面を見ているとします。画面があります。文字があります。それが見えています。では、その「見ている私」は、どこにいるのでしょう。

頭の中でしょうか。目の奥でしょうか。胸のあたりでしょうか。それとも、身体のどこかでしょうか。実際に探してみてください。「私が見ている」と考えるのではなく、その「私」を、実際の経験の中で探してみる。

何が見つかるでしょうか。画面が見える。文字が見える。身体の感覚がある。音が聞こえる。思考が現れる。いろいろなものが現れています。けれど、「これが、見ている私です」と指し示せるものは、どこかにあるでしょうか。

ここで面白いことが起こります。「私が見ている」という考えは、確かにあります。でも、「見ている私そのもの」というものを、経験として見つけることはできません。

それでも私たちは、「私が世界を見ている」という構図を当然のものとして生きています。まるで、こちら側に「私」がいて、あちら側に「世界」がある。

その間に見るという行為がある。そんな構造です。しかし、実際の経験をよく見てみると、本当にあるのは「見えている」ということだけかもしれません。「私が見ている」というのは、その後から思考によって説明されているだけかもしれない。

試しに、今見えているものを一つ選んでください。たとえばコップ。「私がコップを見ている」ではなく、ただコップを見てみます。コップがあります。

色があります。形があります。明るさがあります。そして、それが見えています。ここに、「見ている人」を付け加えなければならないでしょうか。コップが見えている。それだけでは不十分でしょうか。

さらに一歩進んでみます。「私が見ている」という思考そのものも、見えているものの一つではないでしょうか。「私は今、コップを見ている」という考えが浮かんだ。その考えもまた、現れている。

つまり、コップも現れている。身体感覚も現れている。音も現れている。思考も現れている。「私」という感覚さえ現れている。そう考えてみると、「私が世界を見ている」という構図そのものが、一つの現れにすぎないことが見えてきます。

では、世界を見ている人はいないのでしょうか。ここで無理に答えを出す必要はありません。「いない」と信じる必要もありません。ただ、確かめてみる。今、この瞬間に、本当に「見ている人」がいるのか。

概念ではなく、実際の経験として探してみる。すると、見えているものはある。聞こえているものもある。感じられているものもある。考えもある。でも、その全部の背後に、「これらを見ている誰か」が別に存在しているでしょうか。

もしかすると、「見る人」と「見られるもの」という二つが最初から分かれているのではなく、ただ、見えていることがある。それだけなのかもしれません。

非二元という言葉は、何か特別な世界観を信じることではありません。むしろ、私たちがあまりにも当然だと思っていることを、一つずつ疑ってみることです。

「私が見ている」本当に?「私が考えている」本当に?「私が経験している」本当に?そうやって実際の経験に戻ってみる。

すると、そこには思っていたほど「私」は見つからない。あるのは、見えること。聞こえること。感じること。思考が現れること。そして、それらがただ起こっているように見えること。

もしかすると、「私が世界を見ている」のではなく、世界が見えている。「私が人生を生きている」のではなく、人生が現れている。

そんなふうに言ったほうが、実際に起きていることに近いのかもしれません。そして最後に、もう一度だけ確かめてみてください。

今、この文章を読んでいるのは誰でしょう。答えを考えないでください。ただ、探してみてください。「読んでいる私」は、どこにいるでしょう。

もし見つからなかったとしても、何か問題があるわけではありません。むしろ、見つからないまま、読むことだけが起きている。

その単純さに気づくこと。そこには、何かを理解することとは少し違った、静かな明晰さがあるのかもしれません。 by Claris

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