心とは処理プロセス

私たちは、自分には心がある、心を持っているという実感があります。自分の身体よりも、心の方が自分自身に近いという感覚もありますね。

とはいうものの、身体は実際に見えて触れるものですが、心は触ることも見ることもできません。一体全体、心とはどこにあるのでしょうか?

一般的に言われるのは、頭の中、つまりは脳の中にこそ心があるということです。ただし、今のところ、脳を解剖学的に詳細に分析しても、心を発見することはできていません。

これからも「これが心だ!」という具合に見つけることはできないと思っています。それはなぜかというと、心はモノではなく、何かを処理する過程、プロセスそのものだからです。

そんなプロセスが心だと言われても、すぐには承諾できないかもしれませんね。身近なもので類似したものを探すと、コンピューターのプログラムのことを思いつきます。

プログラムとは、何かの目的のためにコンピューターに処理をさせる命令の集まりのことですが、それによって様々なアプリケーションソフトが機能するのです。

人間の心も同じように、本を読んだり、人とコミュニケーションをとったり、ゲームをしたりするための一連の処理をしているわけです。

瞑想中に心を探しても、それらしいものが見つからない理由は、頭の中で何の処理もなされていないからです。頭の中のプロセスが停止してしまえば、どこにも心は存在しないのです。

得体の知れない自分の心が一体どんなものなのか、その片鱗が垣間見えたのではないでしょうか?「自分=心」だと思っていたなら、自分という実体は存在しないということになりそうですね。

意味記憶とエピソード記憶

今日老人ホームに入居している母親のところに行った時に、すぐには息子の私の名前が出てこないようでした。

今のところは顔は分かっているのですが、名前がすぐには出てこないという状態になりつつあるようです。調子がいい時はすぐに名前を呼んでもらえるんですけど。

名前というのは、記憶の中でも意味記憶という分類になるのです。りんごとか、机といったもの、要するに知識のようなものです。

次に、母親の年齢を聞いてみたら、しばらく考えてから「70歳くらい?」って言うので、それじゃあ息子とほとんど同じだねと 笑。

それは流石におかしいと分かるようで。普段自分の年齢はいくつだったっけ?って考えたりしないの?と聞いたら、全く考えないということでした。

仮に考えたとしても、自分では答えを出せないので自然と考えないようになってしまったのかもしれないなと。

記憶の分類の中には、エピソード記憶というものがあります。これは、名前の通り「昨日の夜はカレーを食べた」のような記憶です。

このエピソード記憶にしても、最近の記憶はほとんどないようで、入居してから一度もお風呂に入った記憶がないと言っていました。

母親を困らせないために、記憶に触れない会話をしようとするのですが、これが結構難しいわけです。

外の景色を見せて、今空が暗くなってきたとか、部屋の温度がちょうどいいとか、そういった今現在の話題だけになってしまうからですね。

私たちの日常にとって、記憶というものがどれほど重要なものなのかを実感できます。その一方で、瞑想中は記憶から離れた状態になるのですが、それはそれで心地いいものですね。

思考の根っこに分離あり

昔から思考って一体なんなのだろう?と思うことがありました。いまだにはっきりとこういうものだと理解できているわけではないのです。

ただし思考の根っこにあるものは分かりました。それは、きっと分離という概念ですね。分離というのは、この世界にはモノがあるという認識のことです。

モノという単位でこの世界を見ることによって、それぞれのモノ同士は互いに分離していると認識することになったのです。

そこから、AよりもBの方が大きいとか、BよりもAの方が綺麗などと比較するというプロセスが起きたのです。

こういった内的活動こそが思考の始まりなのではないかと。でもそれは本当にシンプルな思考でしかなかったのです。

それでは、私たちが日々繰り出す複雑な思考は、どのようにできてきたのでしょうか?それは、言葉です。

言葉を発明したことによって、思考は尋常ではないくらいに高度に進化することになったのです。そして、今では言葉なしに思考することはできないくらいになったのです。

本当?と思うのでしたら、言葉なしで何かを考えてみてください。相当苦戦するはずですから。そのくらい、「思考=言葉」となったわけです。

言葉は何のためにあるのかと言えば、もちろん個体同士のコミュニケーションのためですね。だから思考を生み出す左脳が優勢になったのは、当然なのかもしれません。

私たちは、コミュニケーションなしで生きていくことなどできないからです。こんなことをふと思いつつ、思考の奴隷にならない生き方をしっかりと見据える必要があるなと思い返すのです。

期待がないのは大きな救い

精神年齢という便利な言葉があります。というのも、私自身、自分の精神年齢は言うのも恥ずかしいくらいに若い感じがするのです。

精神年齢という言葉がなかったら、どう表現すればいいのか微妙な感じがします。それに比較して、実際に肉体年齢のことを考えると、残された時間がそう長くはないと知るのです。

生きてきた時間と残された時間を比べてみて、明らかに残された時間のほうが少ないことを確認すると、いい点と悪い点の両方があると分かります。

まず、悪い方はと言うと、それはもうあれをやったりこれをやったりという時間が明らかに少ないので、それほど多くを望むことができないだろうと思うのです。

若い時には自分の可能性は未知だった分だけ大きかったわけですが、それがもう可能性などないに等しくなってしまったわけです。

もう一方のいい点はどうかというと、それが不思議なことに悪い点と全く同じで、可能性がほとんどなくなってしまったことが、今度は安堵へと変わるのです。

目の前が開かれていると思うと、あれもしなければこれもしなければとたくさん自分への期待が膨らむわけです。

ところが、もうそんな大きな期待をすることができなくなったと知ることで、逆に穏やかな落ち着いた感覚がやってくるのです。

そして生きることの重荷から解放されたような感じもあるのです。自分に期待しないというのは、本当に一つの大きな救いになるということですね。

右脳と左脳の感謝の違い

子供の頃、ヒーローはありがとうと言わない、感謝するのはヒーローに助けられる弱い人だという固定観念が出来上がったのです。

そのせいで、長いこと感謝とは無縁の人生を送ってきたのですが、十数年前に理由のない感謝の体験をしてから、少しは変わったのです。

その体験は、大勢で瞑想をしている場で起きたのですが、とにかく何か恍惚体験のようなものがやってきて、これを言葉で表したら何になるかと考えた時に、ああ感謝だとなったのです。

全てが感謝で、感謝が降り注いできて、感謝に包まれてしまったような、そんな感覚だったのです。この理由のない感謝って、今思えばきっと右脳による感謝だったのではないかと。

それに対して私たちの毎日は、原因があって結果がやってくるというものばかりです。起きることには必ず理屈が付随しているのです。

多くの感情は思考の結果です。理屈に合わないことをされたと思ったなら、怒りという感情が湧いてくるのです。

自分が惨めだと思ったなら、悲しみという感情がやってくるのです。それと同様に、何らかのことが自分にやってきて、それについて思考した結果として、感謝がやってくることがあるわけです。

こういった原因がはっきりしている時にやってくる感謝は、きっと左脳によるものなのではないかと思うのです。

右脳であれ左脳であれ、どちらの感謝であっても自分の気持ちを穏やかで気持ちのいいものにしてくれるのですから、感謝という感情そのものに対しても感謝しかありませんね。

問題解決欲求に気づく

一般的に言われていることですが、私たち人間の三大欲求とは、食欲、性欲、睡眠欲です。どれも生物として存続するために必要なものですね。

これ以外にも他の生物と比べて、人間に特有の欲求というものもあります。例えば、ブッダの7つの欲求と呼ばれるものがあります。

それは、上記の3つに加えて承認欲求、生存欲求、怠惰欲求(楽をしたい)、感楽欲求(快楽を味わいたい)などがあるのだそうです。

挙げ出したらきっとキリがないくらい出てくるはずですね。そんな中で、今日私が話題にしたいのは問題解決欲求です。

普通に考えたら、問題なんてないに越したことはないわけです。問題が生じると、そのままでは困るからこそそれを何とかして解決しようとするわけです。

ところが、人間はそれを欲求として持っているということです。他の動物との違い、かなり明確です。例えば、クイズに正解したい、ジグソーパズルを最後まで完成したい。そこにクロスワードパズルがあれば、つい手を出してしまう。

クイズやパズルなら問題ないですが、人生で難題がやってきたら、それを何とかして自らの力で解決したい、そういう欲求が強くあるのです。そして実はその欲求が自我を強力なものにしていくのです。

自我はそのことを熟知しているので、次から次へと問題を見つけては本人に投げつけてくるのです。本人はそれとは知らずに、問題解決欲求に従って問題解決に精を出すわけです。

問題を作っては解決し、間髪を入れずに次の問題が提示され、それを解決するとまた更なる問題がやってくるという具合に。これが人生です。

そういった自我の作戦に気づいて、なるべく問題をそのままにしておくという練習をすることです。気持ち悪いかもしれませんが、次第に慣れてくるはずです。

解決したいという欲求も感じながら、傍に置いて放置するのです。そうすると、なんと問題は自然と解決してしまうのです。

そしてそれは私たちが考えているようなやり方とは違って、こんな方法もあったんだと驚くようなやり方で問題が消滅してしまうのです。

エンドレスに続く問題ー解決のループから抜け出るためにも、ぜひ試してみることをお勧めします。物事を問題視しなくなると、人生はこれで良かったんだという見方ができるようになるのですね。

自由には2種類ある

誰もが不自由な生活から解放されて、より自由な人生を送りたいと思っています。人間という動物の本能かも知れません。

どういう時に不自由を感じるかというと、子供だったら親に就寝時間を決められていて、観たいテレビ番組を観ることができないとか。

年頃になったら一人で海外旅行に行きたいけど、危ないという理由で親に許可してもらえないとか。遊びたいのに受験勉強をしなければいけないとか。

大人になれば、嫌いな上司の言うことを聞かなければならないとか、離婚したいけど、生活能力がないから我慢してる等々。

不自由さのネタはいくらでも見つかります。ここで挙げたようなものは、外側からやってくる力に制圧されているようなものです。要するに、一つ目の自由とは外圧からの自由です。

けれども、本当は不自由さの原因は外圧ばかりではないのです。内側にも自分で自分を縛る仕組みがあるのです。

つまり、二つ目の自由とは内圧からの自由です。それは、言葉を変えれば自我からの自由ということなのです。

自分を縛って不自由にしているのは、自我である自分自身なのです。自我が自分を安心させておきたくて、さまざまな防衛を行うのですが、それには必ず自己犠牲という不自由さがついてくるのです。

先ほど上記した、上司の言うことを聞かねばならないとか、離婚できないというのは、自分を不安の中に投げ込むことを恐れているために起こることです。

子供の頃はともかく、大人になってからの不自由さのほとんどは自我が作り出していると思って間違いありません。外圧のせいにしていると、決して自由を勝ち取ることなどできないのです。

自分の自我が、どのようにして自分を縛り付けているかに気づいて、勇気を持って自分を解放してあげることができれば、自ずと自由はやってきてくれるでしょうね。

ペットにされた子供たち

親のインナーチャイルドが猛威をふるっている時、幼い子供はどのように接してもらえるのでしょうか?

想像するだけでゾッとしてしまうのですが、非常に極端なことが起きるはずです。その子供が親のインナーチャイルドよりも幼い時、ペットのように可愛がられるのです。

表面的には親子関係は良好に見えてしまうかもしれませんが、実はペット扱いされるということは人間扱いされていないということを意味します。

インナーチャイルドですから、我が子を一人の人間として尊重するなどということはできません。だから、可愛がるだけのペットなのです。

そして、子供が少しずつ成長していずれは親のインナーチャイルドの年齢、例えば5〜6歳に近づいてくると、親のインナーチャイルドは我が子を脅威に感じるようになるのです。

そうなると、今度は急に冷たく扱うようになってしまうのです。もっとひどい場合には、関わりを断とうとするかもしれません。

子供は、親のインナーチャイルドが作った狭い柵のなかで放し飼いにされているようなもの。ひどくなると外部との接触を遮断するように仕向けられてしまいます。

子供がひとり立ちして親の元を巣立っていくなどということは、絶対に許されるようなことではないからです。

このように親のインナーチャイルドに育てられてしまった子供は、成長して自力で親の元を去ることができる場合と、いつまでも親の柵の中で飼育されたままになってしまう場合があるのです。

なぜこんな悲惨なことが起きるのかは、人間である私には分かりませんが、全ての子供達が親の呪縛から離れて本来の自由な人生を謳歌できるようになればいいなと祈るしかありません。

防衛は人生を悪化させる

世の中には、活動的な人と非活動的な人がいますし、社会で活躍している人とそうでもない人もいますが、それは自我の活性化の度合いとはなんの関係もないと思って間違いありません。

自我が活性化しているかどうかは、その人の防衛の大きさに比例すると言えるのではないかと思っています。

防衛が大きくなればなるほど、自我は肥大化していくのです。なぜなら、防衛するには思考をブンブン回転させる必要があるからです。

自分を守らねばならないという思考が防衛を生み出すのですが、その思いが強ければそれだけ容易にそこにエネルギーを注ぎ込ませることができるのです。

そしてこれはあまり知られていないことかもしれませんが、防衛が強くなればなるほどそれに合わせて、さらに防衛せざるを得ない状態へと持っていかれるのです。

防衛すれば敵が増えるし、惨めな思いをさせられるし、理不尽なことにも遭遇するようになるのです。だからもっと防衛せずにはいられなくなるのです。

つまりは、防衛が更なる防衛を生み出すという悪循環が起きるのです。防衛の原動力は、不安や恐怖といったネガティブなエネルギーです。

したがって、防衛は本人の波動を益々下げて行くことにもなるのです。この逆も真で、防衛が小さくなり無防備の方向へと変えていくなら、波動は上がり敵もいなくなっていくのです。

どちらの人生が快適かは明白です。まずは防衛を助長してしまう思考を緩める練習をすることですね。無目的に散歩をしたり、瞑想の習慣をつけたりすることも効果があると思います。

それでも防衛が小さくならないなら、プロの力を借りて癒しを進めていくという選択肢も考えてみることもいいかもしれません。

この世界に「モノ」はない?

テレビの画面に、例えば上半分が白で、下半分が黒というシンプルな画像が映っていると仮定します。すると、画面の真ん中に上下を分ける境界線があるように見えます。

ところで、画面は色の粒子の集まりでできています。ということは、ものすごく画面に接近してさらに拡大鏡を使って画像を見てみると…。

上半分には白い粒子だけがあり、下半分には黒い粒子だけがあるだけです。この状態では、色の違いがあるだけで、どこにも境界線などないことは明白ですね。

これと同じことが私たちのこの世界でも起きています。というのは、この宇宙をこれ以上細分化できないところまで細かく見ていくと、最後には素粒子しかないことが分かっています。

つまり、全ては素粒子によってできているのです。それなのに、私たちは見かけ上あらゆるものは、互いに分割されていると感じるのです。

3次元の空間の中に、さまざまな「モノ」が存在し、それらはその空間の一部を占有し、互いに分離しているという見方です。

自分たちが見ているスケールでは確かにそのように見えるのですが、どこまでも細分化していった先には、素粒子だけがあり、そこにはどんな分離もないわけです。

これが分離は幻想だという理由です。ところが、私たち人間の左脳だけが、「モノ」という単位でこの世界を認識するような構造に初めから作られているのです。

初めからというのは、生まれる前からということです。つまりは、まだ何も知らない赤ちゃんの左脳も、「モノ」を認識できるように仕組まれているということです。

すごいことですね。進化の過程で我々の左脳はそういった機能を授かったのです。その結果、言葉を発明し、時間という感覚さえも生み出したのです。

そして私たちが暮らしている、この複雑で大規模な人間社会を構築することを可能にし、科学も発展させてきたのです。とんでもないことが起きたと言ってもいいかもしれません。

ただしその代償も大きかったと言わざるを得ません。分離からくる苦悩は、それが見かけ上のものであることを見抜く以外には、無くすことができないからです。

果たして人類の未来はどうなるのか?このまま分離の世界を加速して病んで滅亡への道を進むのか、あるいは左脳と右脳の両刀使いになって発展していくのか。

できれば後者を望みますが、どうなるのかは神のみぞ知るですね。